楊ゼンが、地下へと続く階段を見つけたのは、ただの偶然だった。
         師であり、保護者でもある玉鼎がいない昼下がり、退屈を覚えた楊ゼンは、
       広い屋敷を探検する事にしたのだ。
         留守の間にやっておきなさいと、文字の練習板を渡されていたのだが、
       始めてみたものの、一人では集中など出来なかった。
        結局三つの文字を書いただけで、椅子から飛び下りてしまった。
        広すぎる屋敷は、物音一つしなかった。音という音が世界から消えてしまった
       かのように。
       「うわあっ」
        ふいにザザッと音が聞こえて、楊ゼンは体を竦めた。そっと背後を振り返ると、
      気まぐれな風が、木々をしならせていた。
      「窓に枝が擦れたんだ、・・・びっくりしたあ。だって今は僕しかいないんだもん。
      何もないよーだ」
        楊ゼンはわざと足音を立てて廊下を歩いた。
       「怖くなんかないもん!」
        はたから見れば、強がりを言っているのが、一目瞭然なのだが。しかし、本人
      はいたって真剣に、知らない所を調べに行く、と意気込んでいた。
      「ここは師匠の部屋」
        玉鼎がいない事はわかっているのに、それでも遠慮がちに扉を開ける。
        他の部屋とは色彩が違う。そこは、西域出身だという玉鼎が好む色。彼の故郷
      で作られていた玉の青を基調としてあるのだ。
        楊ゼンが未だ見た事のない海の青。蒼天や自分の髪の青とは違う、吸い込まれ
       そうに深い碧青・・・。
      「海に何時連れてってくれるんだろう」
       ベッドの端に腰掛け、可愛く首を傾げる。
       金霞洞に引き取られてから半年、楊ゼンは、玉泉山の外へ出る事を許されてい
      ない。新しい生活に慣れさせ、始まったばかりの修行に専念させる為の崑崙のしき
      たりだった。
       その期間がどれくらい続くのか、楊ゼンは知らない。ただ、終わらない限り、外へ
      出してもらえない事はわかっていた。
       尤も、五つにも満たない幼い楊ゼンでは、修行を行うレベルにまで達していない。
      人ではない異形の子供に、玉鼎は、人型を取る事を教え、読み書きを習わせ、
      人としての作法を覚えさせた。
      「師匠の匂いがする」
       楊ゼンは置かれていた玉鼎の領巾をふわりと纏った。
       夜になると理由のない寂しさに襲われて涙する楊ゼンを、眠りにつくまで玉鼎
      はいつも抱きしめてくれるのだ。
       自分の部屋を与えられてはいるのだが、楊ゼンがそこで眠った事は未だなかった。
       訪れる楊ゼンを玉鼎は拒まない。寝台に上げ、優しく包まれて・・・。温かい腕を
       思い出すと、楊ゼンは今独りなのが実感された。
      「今日は何時帰って来るんだろう・・・師匠が戻るまでに、いっぱいの事を知っておく
      んだ」
       領巾を身につけたまま(一人でないように思えるから・・・)楊ゼンは屋敷の知らない
      部分を探る旅を再開した。
       玉鼎の屋敷は広く、使われている気配のある部屋など、ほとんど見つからなかった。
      二人が一つずつ自室としている所と、勉強部屋、竹管の仕舞われている書庫に、
      来客用サロン、台所・・・。後は何もないガランとした空間だけだった。
       「こんなに広いのに、どうして使わないんだろう?」
       動物の置物があるサロンで、順番を換えて遊びながら、楊ゼンは呟いた。
       いくつもある階段と、折れ曲がって延々と続いている廊下・・・100を越えるほども
      部屋があるのかな、と考えた頃には、すっかり道に迷っていた。
       「え・・・っ、もとの場所に戻れない・・・」
       外に出れば、屋敷の外を回るだけで済むのだが、扉はなく、楊ゼンの背より高い所
      にある窓も、空が見えるだけで、方向を定める役には立たなかった。
       歩き回ったせいでお腹も空いて、帰る道もわからず、楊ゼンはべそをかいて座り込
      んでしまう。
       「師匠ぉ・・・っ」
       しゃくりあげながら、玉鼎の名を呼ぶ。いないのはわかっているのに、ふいに現れて
      「どうした?」と抱き上げてくれるような気がして。
       しかし現実は、重苦しい静寂が流れているだけだ。
       「・・・あれは?」
       ふっと上げた顔の先に、他とは違う小さな扉があった。玉鼎が入るのには、背を屈め
      なければならないだろう。
       「屋敷には抜け道があるって師匠に聞いた事があるなあ。あれがそうなのかな?」
       扉の先は、下へ延びる階段だった。飾りもなく、剥き出しの石壁が、妙に不自然さを
      与えている。
       戻る時の事を考えて、扉はは開けたまま、楊ゼンは降り始めた。光が届かなくなる前
      に蝋燭に火を灯したのだが、必要もなかったくらいあっさり行き止まってしまった。
       簡素な棚が、階段を除く三面の壁に沿って並べられていた。陶器の壺がいくつも並ん
      でいる。
       「・・・?」
       楊ゼンの鼻が、甘い香りに気づいた。一番小さくて手の届く所にあった壺を降ろし、
      ふたを取ると、香りが強まった。
       「桃のジュースだ」
        ペロリと舐めてみると、ふくよかで甘酸っぱい。
       「甘ーい」
        大きな匙を探し出した楊ゼンは、空腹だった事もあってすぐに多くを飲んだ。
       「どうしてこんな所にジュースを置いておくんだろう。悪くなったりしないのかなあ」
       楊ゼンは立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、転んで壺を割ってしまった。
       「あ・・・」
       残っていた中身が床にひろがり、小さな頭いっぱいに桃の甘ったるい香りが充満した。
       「おかしいな・・・僕・・・、体がとっても熱い・・・」
       壁に手を付き、重たくなった体が崩れるのを止めようとしたが叶わず、楊ゼンは床に
      倒れた。
       着物が液体を吸って、淡い桃色に染まった。
  
       楊ゼンが知るはずもないのだが、彼が飲んだ物は・・・?

                                           2に続いてしまいます。