上空から見れば、玉鼎は道府が闇に沈んでいるのがわかった。いつもなら、あちこちの部屋に光が灯って
       いるのに。
        楊ゼンに何かあったのか、と不安を覚えたが、玉泉山に危険な物などありはしない。飛翔する術を知らない
       子供は、道府の内部にいるはずなのだ。
        騎獣をふわりと降りると、少し慌てた足取りで、玉鼎は屋敷へと向かった。扉を潜る前に、空に目をやる。日
       暮れを迎えてから、かなりの時間が経過していた。
        玉泉山の西端には、名残の赤い陽光すらなかった。濃い藍色のヴェールが、一面に広がっている。
       「楊ゼン、どこだ?」
        漠然とした不安を拭いきれないまま、昼間子供を残した部屋へと入る。明かりを点けてみてもそこには蒼天を
       映した髪はなかった。燭を手に、サロンや二人の私室を巡ったが、どこにも姿がない。
        再び、もとの部屋に戻った玉鼎は、机の上にやりかけのまま放置された文字板と筆を見つめた。子供らしい
       大きな字が、三つだけ書かれている。
       「これでは10分と大人しくしていなかったようだな」
        苦笑して文字板を指ではじいた。
       「さて、悪戯っ子はどこにいるのだ?」
        気づいてみれば、気配は屋敷の中にわだかまっている。暗がりと闇を異常に怖がる子供だ。玉鼎の目に入ら
       ない所で必ず明かりを灯しているだろう。
       「上空から見えなかったのだから、地下か・・・」
        地下には、浴室や酒蔵くらいしかないはずだが、と玉鼎は首を傾げた。
        とりあえずは急いで探さなくてはならない。楊ゼンが独りで泣いているかもしれないから。
        玉鼎が仙界に上がってから初めて触れた幼い体。まだ地上に命を誕生させてから、5年にも満たない内に
       存在する精神。
        最初に出会った時も、楊ゼンは泣いていた。引き離された親を求めて。どう扱ってよいかわからず、玉鼎はただ、
       抱きしめてやっただけだった。
        それでも子供は、玉鼎の腕の中にあるのを喜び、胸の鼓動を聴きながら眠る顔は、至福の表情を浮かべる。
        抱く手に力を込めれば、簡単に壊れてしまいそうなほど、弱くて脆い、そして愛しい存在。
        地下、と選択肢を限った事で、玉鼎はさほど歩き回らずに楊ゼンを見つけられた。やたらと広い金霞洞の屋敷は、
       一つ一つをさがせば、かなりの時間が必要となる。
        玉鼎が使っているのはごく一部だけで、実際の部屋数が幾つあるのか、彼自身もきちんと覚えてはいない。
       100はあるのでは?というレベルだ。
        酒が保管されている場所へと続く扉が開け放してあった。 
       「ここか・・・?」
        むっとするほどの酒の匂いが充満している。全てに蓋を施してあるので、普段はこのように香りが広がりはしない。
        覆いが取り除かれているのだろう。
        短い階段を下りた足先に、割れた陶器のかけらが触れた。
        周囲には床に染み込みきっていない液体が広がり、その先に楊ゼンが倒れていた。
       「楊ゼン!」
        抱き起こしてみたが、楊ゼンはくったりとして意識を取り戻そうとはしなかった。彼の吐息に酒精を感じて、玉鼎の
       顔が顰められる。
       「これを一つも空けてしまったのか」  
        西王母の下で取れる桃から造られた酒だ。普通の物よりかなりきつい。
        理由がわからないまま、玉鼎は楊ゼンを寝室へと運んだ。
        抱き上げたひょうしに、楊ゼンから領巾が落ちた。  
       「私のだな」
        酒を吸って桃色に変色した物を拾う。 
       「私がいない間、一体何をしていたんだ・・・?」


        楊ゼンは瞳を開いた。目に映った天井がくるくると回っている。青い色、未だ行った事のない海というのが
       こんな感じかなあとぼんやり考えた。
        でも水の中なら体は軽いのに・・・。どうしてこんなに重いんだろう?
        ふっと頭を巡らすと、途端にものすごい痛みが押し寄せた。
       「・・・・っ!!」
        頭を抱えて枕に突っ伏す。今まで経験した事のない痛みに言葉すら出なかった。
        そんな楊ゼンの体に手がかけられ、上向かされた唇に冷たい水が与えられた。
       「ん、ごふ・・・っ」
        飲み込みきれずに楊ゼンがむせると、軽い溜息とともに、今度は口移しで少しずつ注ぎこまれた。
        汲んできたばかりの水は透き通るほど冷たく、体に染み渡った。
       「気分はどうだ?」
       「どうして、頭が痛い・・・」
       「眠る前の事を覚えているか?」
       「え・・・っと」
        楊ゼンが記憶を手繰り寄せる。
       「探検してて・・・そうしたら道に迷って・・・お腹が空いて・・・」
        途切れ途切れの言葉だが、言いたい事はわかる。
       「桃のジュースがいっぱい置いてある部屋があって」
       「それで、一瓶空けてしまったわけだ」
       「はい。おいしかったです。でも・・・今は頭が痛い」 
        玉鼎は楊ゼンを責めはしなかった。
       「おまえが飲んだのは、アルコールが入っていた」
       「アルコール?」
       「少なくても、子供が飲んで良い物ではない」
       「ごめんなさい」
        寝台の上で楊ゼンがうな垂れた。
       「いや、おまえの食事まで気がまわらなかった私にも問題がある」
        育ち盛りの体が求める物に玉鼎は気づかなっかたのだ。本来本能的な欲求には頓着しない性格のせいで、
      他人も同じだと考えてしまいがちだった。
       「一日ゆっくりしたら、元気になるだろう。薬をあげるから。
        それと、あの部屋へはもう行かない事」  
        玉鼎が、椅子を引き寄せて楊ゼンの頭の近くに腰掛けた。
       「おまえがもっと大きくなったら、私と一緒に飲もう」
       「約束です」
       「ああ」
        額に接吻されて、心地よいと楊ゼンは思った。
       「師匠、病気になって、僕、本当に・・・」
       「悪戯は子供の特権だと太乙が言っていた。おまえもまだまだ幼いのだから、気に病む事はない。ただ、勉強を
       途中で投げ出したのはいただけないが。 知識とは、人と動物を隔てる一番大切なものだ」
        腕を回して楊ゼンを抱きしめてやる。静かに寝台に乗り上げ、幼い体の横に身を横たえた。  
       「おまえが独りで泣いていなくて良かった・・・」
        大きく包まれて、温かな鼓動が聞こえてきた。
       「心配をかけてごめんなさい、僕がんばって良い子になります」
        頭だけを動かすと痛いので、体ごと向き直り、玉鼎の腕にすっぽりと収まる。
       「だから僕を嫌いにならないで。師匠大好き」
        瞬間、玉鼎が見せた照れるようなはにかむような表情に楊ゼンは気づかなかった。