意識が体から無理やり引き剥がされたと知るには、いくばくかの時がかかった。
全身をぬめるように撫でられる感触。思わず吐き気を覚えてしまう不快さに、泰継は両手で口元を覆った。
「ぐ・・・」
しかし、こみ上げてくる物はなかった。生々しい熱さが喉の奥にあるというのに。
驚いて瞳を見開いた泰継の横から苦笑が聞こえた。
「今のおまえは春の山に漂う霞」
おいでと手招きされて傍に寄れば、時親に触れる事も出来ずにするりとすり抜けてしまう。
「時親・・・」
戸惑いに問いかけたが、唇近くに翳された掌に遮られた。
「その姿ならば疫の穢れには毒されまい」
「疫病?」
初めて知る言葉だったが、既に意味はわかっていた。
「永泉が冒されているというのか・・・」
「そうだ。加持も効果がないという。残念な事だ。蔓延する病は、身の貴賤を問わず、京中に満ちている」
均衡を取れずにふらつく泰継を誘い、北西へと時親は気を向けさせた。
「見えるか? この澱みが」
「・・・ああ」
左右の違う双眸は、大気のたゆたう様をつぶさに映していた。開け放たれた扉の外、遥か北の空には瘴気が
渦を巻いていた。
「体という枷がなくなった分、良く見えるであろう?」
「これが・・・穢れ・・・。祓う事は出来ぬのか・・・?」
泰継はふるりと頭を振った。
「人の力には己ずと限りがある」
「だが・・・彼には、出来たはずだ」
胸に拳を当て、きゅっと握り締める。泰継の内、泰継の核は過去に生きた者の陰気なのだ。
「私も・・・父も無理であろうな」
屋敷の奥、渡殿1本だけで繋がれた場所に住まう先代の当主、吉平の事を時親は口にした。
「祓うよりも満ちる方が早い。故に澱みは晴れぬ。おまえはどうであろうか。陰陽の技を使う術を未だ知らぬが、
安倍の姓を名乗る以上、おまえの役目でもある。祖父の力を継ぐのだ。
力はあるだろう」
泰継が透き通る手を広げ、視線を落とした。
「わからない」
「・・・だろうな。おまえは外の汚れに触れておらぬ。故に精神だけの存在とはいえ、多くの時はやれぬ。肉を与え
られて間もないおまえが京の闇を染み込ませる前に戻れ」
そこでふっと口を閉ざした時親が再び唇を開いた。
「もう少し早く目覚めさせれば良かったのかも知れぬな。・・・さあ、もう行け」
悲しげに曇る泰継を時親は飛び立たせた。
風に乗って消えた霊からだをしばらく眺めていた時親が溜息した。
「死後5年をもって器を与えよ、との遺言。・・・では誰があれに陰陽の理、祖父の技を教えよというのか」
とん、と柱に凭れる。澱んだ風が烏帽子から零れた髪を嬲った。
稀代の陰陽師と呼ばれた晴明の力を、子孫達は継ぎぎれなかった。彼が涅槃に入ってより、都の闇は深くなっていく。
「龍神の神子なる者をまた召還せねばならぬ日が来るかも知れぬ・・・な。尤も、その時まで私は生きていまいが」
今一度空を見やった後、何かを振り切るように時親は扉を閉ざした。


この季節にはまだ早い花の香りを感じて、永泉は目を覚ました。
冷たい汗に全身が濡れているのがわかる。起き上がる事すらだるく、横になったまま瞳だけを動かし、窓辺へ視線を
向けた。
肌に散る赤い発疹。永泉は自身が流行る疫病に冒されている事を知っていた。残された命が短い事も。
「桔梗の香など・・・。あの方はもういないというのに」
頬を涙が滑り落ちた。
過ぎ去ってしまった時間。二十年以上の歳月を経ても褪せる事のない記憶。消えた・・・想い人。
「あの方は・・・そう、何時も仄かに・・・」
ふいに額に冷たい何かが触れ、永泉は体を強張らせた。
「泰・・・」
「私だ。永泉」
泰継の姿を見つめた永泉に落胆が浮かんだ。それは一瞬で消え、怒りを滲ませた冷ややかさに変わったが、泰継は
気づいていた。
「このような私に会いたかったのですか?」
発せられた言葉は、熱にうかされていた。高熱を繰り返し、少しずつ体力が奪われていく。今は落ち着いてはいるが、
それでも微熱がうつうつと続いているのだ。
「そうだ。おまえに会いたかった」
「私は望んでいません。無理に押しかけてくるなど、礼儀を知るならすぐに帰りなさい」
「嫌だ」
「あなたにいて欲しくなどない!」
永泉が枕元にあった水差しを投げつけた。しかしそれは泰継を通り抜け、空しく床に転がった。
「霊・・・体・・・。では、私の疫を受け付けはしない・・・ですね・・・」
安堵した永泉の表情が和らいだ。
「おまえが来ぬから・・・永泉、大事ないか?」
ダイジナイカ?
泰継が、泰明の姿とだぶる。
「その声で・・・その顔で・・・言う事まで同じなど・・・」
永泉の手が伸ばされた。
「私に・・・触れる事は出来ない」
「そうでしたね。体は時親殿の所に?」
「ああ」
膝を折り、泰継は座した。
「遠くに行ってしまうのか?」
「・・・はい」
「おまえは、私を見てはいない・・・。何故、私では駄目なのだ・・・」
「この生命はあの方に。しかし、約束しましょう。もし時空を経てあなたと再び巡り会えたならばその時はあなたを
見つめます。きっと」
静かな笑みが永泉に浮かんだ。
彼は何時も柔らかだったが、何処か冷たく満たされない物を秘めていた。泰継を責めながらも飢えていた。
手に入らない物を見つめ、欲して。
それが全て失われている。
「永泉・・・」
「覚えておいて・・・下さい・・・」
触れ合えないもどかしさに泰継は俯き、わかったとだけ答えた。


永泉が身罷ったのは、それから二日の後だった

薫風大詰めです。後1、2回という所です。