まとわりつくように生温かい雨の中、泰継は佇んでいた。
着物はぐっしょりと濡れ、既に水を伝い落とすだけの役割しか果たしていなかった。
陽は既に落ち、大気は少しずつ冷え始めている。
しかし、感覚はとうに麻痺していて寒さなど感じなかった。
心が・・・閉ざされていた。
僅かに上向いた泰継の顔に雨の雫が弾け、流れた。
もうどれほどそうしているのかは、覚えていない。
北を向いて、泰継は立ち尽くしていた。
その方角には、彼はいないというのに。
「泣いているのか?」
ふっと掛けられた声に、反応すらしない泰継に時親が静かに近づいた。
頬に手を添えると、肌は陶器のように冷えていた。
「これは涙か?」
「泣いてなど・・・」
色を失った唇が噛み締められた。
細い肩が震えていた。引き寄せ、腕で包んでも、泰継は抵抗しなかった。
「おまえの気がずいぶんと弱っている」
濡れた髪に指を入れ、軽く梳きながら時親が言った。
「結界が張られているとはいえ、こんなに無防備であれば、都の穢れを染み込ませてしまうかも知れぬ。・・・?」
泰継が時親の胸元をきゅっと掴んだ。
「おまえも、死ぬのか?」
闇を映す黒い瞳がすっと眇められた。烏帽子から零れた髪が一房、見上げる泰継に落ちかかる。
「そうなのか? 時親」
「人であるならば、当然の事」
抱く腕に力を込めると、泰継が寄りかかってきた。
「・・・泰継。この世にあるという事は、人の死を見続ける事だ。おまえが死ぬ時まで。先に生まれた者が先に死ぬ。
それが理だ。通常であるならば」
「時親も、いなくなると・・・」
「私は永泉様より10も年下だが、おまえよりは20以上も上なのだから・・・な」
俯いてしまった顔を上げるように命じ、時親が戦慄く唇に口付けた。
「見たくないのならば、去れ。どのみち、弱ったおまえをここに置いておくわけには行かぬ。清浄な気の満ちる北山に居を
与えよう」
触れ合う唇、交わる吐息だけが熱かった。
「は・・・あ・・・」
封じられる呼吸の狭間から泰継が喘いだ。
「私を、追うのか・・・ここから」
「そうなるだろう。おまえの心が落ち着けば、戻って来る事を赦しもするだろうが・・・」
そっと促して時親が泰継を屋敷内へと誘った。躊躇う脚は、逆らうだけの力を残しておらず、泥濘によろめきながらも、
歩かされた。
板張りの冷えた床に崩れた泰継に、乾いた着物を掛けてやった時親は円座にゆったりと腰を降ろした。
「人の魂は巡る物という・・・。遠い国から伝えられた話だ」
呟きにも似た言葉が広い空間に流れた。
「真実は誰にもわからぬが・・・」
雨の音が屋根を叩いていた。
尽きる事など知らぬかのように、重く垂れた雲から水は降り注ぐ。芽吹いた緑を潤わせ、命を与えるはずの季節も、人の満ちる
都にあっては、瘴気を撒き散らす元になっているだけだ。
湿った冷たさも、どこか澱んでいた。
触れてみれば温い雨も、この闇夜の冷気を払拭する事は出来ないようだった。
しとしとと・・・。
雨が続いている。



泰継が山を降りたのは、久しぶりだった。
三月の目覚め、三月の眠りという、常人とは違う体に気づいてより、滅多に人のいる場所に現れる事をしていない。
必要を覚えなかったからだ。
時が経つごとに、泰継は独りでいる事に安らぎを覚えていた。
それが、言い知れない胸騒ぎを感じたのだ。
不安・・・とは違う。じっとしていると落ち着かない。鼓動が速まり、息が苦しい。
壊れてしまったのかと思えるほど。
原因のわからない何かが、泰継の離れた安倍の屋敷から感じられる。拒んで無視をしてしまうには、沸き起こるうねりは大きかった。


何十年もの時が過ぎているのに、そこは変わりなどなかった。
度重なる大火に見舞われる都にあってさえ、炎を免れ、この地に屋敷を構えた遙か昔に生きた安倍晴明の時代のまま存在していた。
泰継の核・・・
稀代の陰陽師。
去ってしまった過去は遠いのに、体の内に彼はいる。
庭を横切り、かつて与えられていた部屋へと自然と向かいかけていた泰継の耳に、小さな笑い声が聞こえてきた。
泰継が歩いた葉ずれの音に一瞬、静かになったのだが再び、密やかな笑みが零れた。縁に腰掛けた二人の子供が広げた巻物を
覗いている。
元服したばかりなのか、烏帽子の扱いに慣れていない様子の子供が、顔を上げた。
「おまえは誰だ、初めてみる」
「え・・・?」
誰何につられて、横にいたもう少し幼い子供もふっと振り向いた。
その瞳の色・・・流れる紫を帯びた髪。
「泰親殿、年上の方に失礼です・・・」
「構わない、私はこの家の長子だ。見知らぬ者を質す事は当然だ」
とん、と庭に降りて泰継の前に立った子供は躊躇う事もなくまっすぐ見つめてきた。
「私は安倍泰親だ。この屋敷に入ってこれたのだ、おまえもこの家の縁の者だろう?」
泰継の目が泰親と、彼に隠れるようにして立つもう一人の子供に向けられた。
問われていると感じたのか、長い髪を揺らした少年が頭を下げた。
「源・・・泉水と申します。初めまして」
人の魂は巡るという・・・
最後に会った時親も言葉が思い出された。
「口がきけぬのか?」
「お可哀想です、泰親殿」
泉水が背伸びをして泰継に手を差し伸べた。
「お脚が汚れています。たくさんお歩きになられたのでしょう? こちらに・・・落ち着かれたらきっと身分を教えて下さいますでしょう。
泰親殿、まずはお通ししてよろしいですか?」
「・・・わかった。来るといい」
左右の手が二人に握られた。


初夏の若葉が風に揺れていた。

薫風・完結です。長かったですが・・・何とか、終わりです。
時親&永泉から、泰親&泉水にバトンタッチです