何時、気がついたのかはわからなかった。眠っていてもいなくても、闇に包まれて
いるのだから。
今、目覚めていると思っている事も夢うつつの幻かもしれなかった。
黒く塗り込められた深淵。世界がこの色だけではないかと錯覚してしまうほど、
それは濃い。
瞳に受ける僅かな圧迫感だけが、闇が人為的に作られた物だと確認出来る全て
だった。
原初の闇。
夜の闇。
黒。
これが夜空の闇ならば星の微かな光を慰めとして受ける事も出来るだろうに。



「・・・っ」
夜の冷気が、水を冷たくさせていった。下半身から伝わる寒さに泰明は身を竦め、
切なく溜め息を吐いた。
この冷気が、体内に抱える熱を抑えてくれる事を願いながら。立ちあがるモノを無理に
封じられる辛さは痛みでしかなかった。
手で触れて癒す事も出来ず、悶える度に岩に打ちつけ、脳に突き刺さる激痛を味わう。
「ふ・・・っ、く・・・」
唇を噛み締めても、呼吸が上がってくる。
視界が閉ざされた事で、残された感覚はより鋭敏になっているようだった。
一体どれほどの時が経過しているのか・・・。泰明は霞みかける意識で考えた。
夏の日差しと、夜の冷たさを何回感じた?
ぐったりとぶら下がるだけの手首から先は水と同じほど冷たく痺れている。浸された
ままの足も、また。
ただ、体の中心だけが強引に植えつけられた熱を宿しているのだ。
わからない、と泰明が頭を振った。
苦しみを与えるだけ与えておいて、友雅は何をしようというのか。
ぱしゃりと水が跳ねた。
浮かぶ落ち葉が流れに乗り、濡れた泰明の腿に張りついた。不快気に秀麗な顔が
顰められたが、それはすぐに訝しさに変わった。
膝までだった水で、何故腿に葉が触れるのだろうか。
「あ・・・」
泰明が怯えたように上向いた。
答えなど勿論ただ一つだ。
水位が上がっている。
縛められる岩に体を寄せ、力の入らない指先でしがみついた。
置かれた場所がどれほどの深さになるのか、わからないだけに怖かった。
ひたひたと、水が周囲に満ちて・・・くる。


冬に比べて、夏の空はいささか赴きに欠ける、と星の煌きを見やった友雅は杯を
傾けた。突き抜けるほど深い空に散りばめられる輝きは、この季節には光本来の
美しさを損ねているように感じられるのだ。
「熱気が靄をかけるのかもしれないな」
陽が落ちても尚、淀むかのような暑さを感じる。盛夏の頃よりは幾分落ち着いたが、
秋風が吹くにはまだ時間を要するだろう。
縁に胡座し、欄干にゆったり身を凭れさせている。
この男にしては珍しい、一人手酌で酒を唇に運んでいた。
不自然にならぬよう、それでも整然と手入れされた木々の中を夜風が流れた。
「そろそろおいでになられる頃かと」
虚空に友雅が杯を差し伸べた。
前触れもなく現れた一人の男に友雅は体を起こした。
「もう3日が経過した故、な」
仄かに燐光を纏った泰明の師が階を上ってきた。狩衣を隙なく纏いつつも、髪だけは
夜に溶けてしまうほどの闇を映した長さを靡くままにしている。
「泰明を見にいかれますか?」
「・・・いや。君ならば命に関わるような無体はしまい?」
「生命を脅かさなければ、何をしても構わぬとでも?」
意地の悪い友雅の問いかけに晴明がくっと笑った。
「さて」
軽くかわされてしまった事に友雅は肩を竦めた。全ての意味で晴明に敵わないと自覚
しているだけに、新たに問う事はなかった。
「あなたが望まれた事でも、これは私の意思に変わりはない・・・」
「わかっている」
すいと晴明が首を傾げた。
「泰明が怯えているな。このおかしな水の気配と関係があるのか?」
「そうですね。命に関わりはしませんが」
「ならば構わぬ」
「あなた方は、不思議な師弟だ」
晴明が生身でない事に友雅は既に気付いていた。だから彼が突然に姿を消しても驚き
はしなかった。
高位の陰陽師は変わり身を自在に使うと聞いてはいたが、実際に目にするのは初めて
だったが・・・。
「繋がれた泰明にはまだ出来ぬというわけか」
力があれば、友雅がいくら縛めたとしても何ほどの効果があるだろう。
「今頃どうなっている事か」
立てた膝に頭を預け、友雅は杯に新たな酒を注いだ。

少し間を頂きましたが、緋炎再開です。

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