背に心地良い程度の重みを受けながら、頼久は剣を磨いていた。
遮る物の何もない縁の外から初夏の風が、若葉の匂いを運んでくる。
長い刀身がきらりと光った。
陽を弾くほど手入れされているのに頼久は磨く行為を止めようとはしなかった。
凭れて眠る泰明の為に。
濃い睫毛に覆われた瞳を閉じ、安らかに寝息をたてている。
座り寝という不自然な体勢故、少しの衝撃でも起きてしまうだろう。
突然訪れた泰明が疲れた様子で凭れかかってきてから、頼久はずっとこうしていた。
それだけで心が満たされるようだった。
「・・・何も訊かないのか?」
ふいに背中の泰明が身じろいだ。
「起きていらっしゃったのですか?」
「今、起きた」
両腕を高く上げ、泰明が伸びをした。
「おまえの背は広いからな。気持ち良かったぞ」
「疲れは取れましたか?」
問いかけられた泰明はついと首を傾げた。
「半分ほどは」
「床を用意しましょうか? その方が体が休まりますよ」
「いや、いい」
立ち上がりかけた泰明を頼久が止めた。
「何だ?」
振り返った泰明が不思議そうな表情をして、頼久を見つめた。
「まだ顔色が悪いですよ」
「・・・頼久」
「はい」
「武士になるにはどうしたら良いのだ?」
「・・・え?」
いきなりの言葉に驚く頼久の前に回り込み、泰明が座り込んだ。何時もならきっちり結わえ
られている髪が幾筋も乱れている事に頼久は気づいた。
ただならぬ事があったのかもしれない・・・。疑問が頼久の脳裏に浮かんだ。
「陰陽師以外の生き方をしたい。教えてくれ、頼久」
その真剣な態度から、戯れではない事が伺える。
「一体どうされたのですか?」
床についた泰明の掌が握り締められた。
「力が・・・安定せぬのだ。体から抜けていくのがわかる。・・・このままでは私の目は閉じられ、
ただ人と変わらなくなる」
「まさかそのような事が・・・。陰陽師のお力は生来の物ではありませんか。泰明殿に限らず、
持って生まれた力が無くなってしまうなど、考えられません」
「自分の身の事だ。良くわかる。そして、陰陽の力の無い者が安倍の屋敷にいるわけにはいか
ない。・・・私は出て来たのだ」
普段は表情に乏しい泰明が、こんなに疲れた顔をしているのだ。ここに至るまでにどれほど
悩んだのだろう。それを考えると頼久の胸が痛んだ。
「どうか、お戻りを。晴明殿にご相談はされたのですか?」
しかし、あえて頼久は突き放した。失われていく泰明の力に対処する術を彼は持ち合わせていない
事を知っているから。
「言えぬ・・・」
泰明が頼久に縋りついた。
常からは想像もつかないほど、泰明は憔悴し怯えていた。
「力にない私を師匠は必要とされない。私は消されてしまう・・・」
「あなたは、晴明殿の最後にして最強の弟子と言われていらっしゃるではないですか。少し、
落ち着かれて下さい」
「怖いのだ、私は・・・」
安らげると思っていた頼久にまで拒まれた泰明の瞳に涙が浮かんだ。
「・・・わかった」
泰明が体を離した。
「どちらに行かれますか?」
「おまえには関係ない」
「その様子だと、お屋敷に戻られるわけではないようですが」
「関係ないと言っている! 離せ! 頼久」
掴まれた腕を振り払おうと泰明はしたが、頼久は離そうとはしなかった。
「おまえでは役に立たぬ。これ以上何の用があるというのだ」
華奢な身で敵うはずもないのに抵抗を止めない泰明に郷を煮やした頼久は、言葉だけでも封じ
ようとして口付けた。
「んん・・・っ」
泰明がざっと強張るのが触れた場所から伝わった。
息苦しさに震え出すほど長い接吻を与えてから頼久は唇を離した。溜め息とともに脱力する泰明を
支えてやる。落ち着くようにと背を擦られても、泰明はされるがままだった。
「私の剣が持てますか?」
「頼久・・・?」
「武士とは剣を帯びる者。これを手に立って下さい」
「わかった」
渡された剣はずしりと重かった。
「出来ませんか?」
「そんな・・・わけがない」
「では、どうぞ」
泰明は真っ直ぐ立とうとしたのだが、初めて手にする武器は持つだけで精一杯だった。
「鞘つきで構いませんので、切っ先を上げて構えてみて下さい」
「く・・・」
肘だけで支えるのは泰明の渾身の力が必要だった。ぶるぶる震える刀身に、頼久がふいに
小太刀を打ちつけた。
「−−−−!」
簡単に弾き飛ばされた剣が床に転がった。
「剣も満足に持てませんか?」
「その小太刀なら出来る」
「このように小さな物など、市井の女でも身につけているでしょう。長刀をつけた上で小太刀も帯びる
のが当たり前です」
頼久は壁に立て掛けてある幾本もの剣から、細身の物を選び泰明に差し出した。
「着替えを用意してきます」
「私にか?」
「そうです。今宵当家は嵯峨野の屋敷で宴を開きます。私は警護の任を承っていますので、小者として
付いて来なさい」
言葉使いは丁寧だが、頼久の口調から敬語が消えていた。
「私の小者として。身分の上下を弁えなさい」
従者らしい、洗いざらしの粗末な着物と袴を与えられた泰明は、一瞬戸惑ってから袖を通した。

珍しく頼泰。3回くらいの話にしたいと思っています。