・・・・ 「時親・・・」
空虚に吹きすさぶ風に堪えられず、泰継は部屋を抜け出していた。さらりと重く
垂れる御簾。押してみた先は春の気配に息吹く緑。
永い眠りにあった身体が動く事を嫌がるように軋む。
こうして、泰継の中に微かに存在する泰明も眺めたのだろうか。
葉ずれの他は音一つしない。
今までの眠りと同じ静寂。
形を与えられるまでいたのと同じ・・・。
泰継がいた部屋の外は簀子で囲まれていたが、一方には几帳で遮られていた
ので、進める方向は定まっていた。
歩く事に慣れぬ脚を壁に支えを求める事で宥め、泰継は何を欲しているのか
わからぬまま、動いた。
意識すら茫洋として制御出来てはいない。
ただ、脳裏に浮かんだのは紫紺の髪の者の名ではなく、時親だった。


歩くうちに彼がどこにいるのかがわかった。
衣擦れの音と馥郁たる香りが遮られた室内から漂ってきた。
一度は躊躇い、御簾に伸びた指は止まったが、泰継はそれを除けた。
見知った時親が座していた。
近寄ろうとして、足元に段差がある事に気づかず長い裾を絡げて膝をついて

しまう。
「誰だ?」
誰何は他の者達よりきつく発せられた。ざわざわと気が乱れる。白と青を基調にした
衣を纏った男達がきつく泰継を見据える。
「祓いの儀に乱入するとは・・・!」
侵入者を力づくで排そうと、歩み寄った者の動きがふいに止まった。
「妖かしか。その瞳は」
「・・・瞳?」
泰継はそっと自身の瞼に触れた。温かな熱が指先から伝わった。
「おかしいのか?」
「己が姿を知らぬ妖かしとは」
男から嘲笑が漏れた。それが泰継の神経を逆なでした。
「何を笑う」
色の違う双眼に炎が宿った。
心がちりちりする。
矜持が傷ついたが故の痛みだったが、泰継は疼く意味を知りはしない。
「時親様にともに祓ってもらおうぞ」
「・・・時親・・・」
「安倍家の長、陰陽頭でもある時親様を呼び捨てにするとは」
いきなり肩口に鋭利な衝撃が走った。
「う・・・っ」
祭儀に使う短丈で打たれた場所を庇って泰継が蹲った。さらに足蹴にしようとした男を
時親が制した。
「そこまでにしておけ」
「されど・・・」
「その者は私と御室の法親王が目覚めさせた」
場の空気が凍りついた。
「目覚め・・・」
泰継を痛めつける事は止んだが、時親の言葉は、彼が人ではないと告げたのだから。
「私の祖父が陰の気から創り出した存在だ。死後五年をもって形を与えたが、意識を覚える
までに半年を要した」
時親が腕を広げた。
「おいで、泰継。淋しかったのか?」
「私は・・・」
幾つもの冷たい視線が突き刺さる中、泰継は時親の元へ行く事が出来なかった。
ただ膝を立て、歩み寄るだけなのに。
「記録に残る泰明も、高い心を持っていたそうだ」
苦笑を浮かべ、時親は言った。
しゅるりと絹の触れ合う音がし、時親からすいと泰継に近づく。
「どうした? 言葉は知っているはずだ。泰継」
泰継は首を振った。
「まあよい」
漆黒の闇にも似た瞳が泰継を見つめた。それが逸らされ、時親は背後を振り返った。
「仁和寺に使者を立てるように。これの躾はかの法親王殿も担っているので・・・な」
「私を何だと・・・っ」
「さあ、私にもまだわからぬ」
泰継の抵抗は手首を掴まれて封じられた。
「離せ、」
「どうしてやろうか」
穏やかだった時親の気が変じている。
それが、怖い物に感じて知らず泰継の身が竦んだ。掴んでいる手首から察した時親が
さらに力を込めた。
「痛・・・っ」
「意識を覚えたばかりで、無垢だな」
時親が声を上げて笑った。冷たく取りまいていた気が氷解していく。
「私は務めの途中だ。この者を外に出せ。・・・ああ」
言われるままに泰継を追いたてようとした男達に時親が続けた。
「名は泰継という。どれくらいになるかわからぬが、この屋敷に置く」
反論を受け付けぬとばかりに告げ、築かれた祭壇に時親は向き直った。


乱暴に投げ出された泰継の前で拒むように御簾は降ろされた。
櫛を入れていない髪が風に嬲られる。
長い髪を指で一つに纏め、俯いた白い頬に一筋涙が伝った。