呼び出した時間より半刻も遅れてから鷹通は姿を現した。勿論、わざと、
である。
その間にそれとなく泰明を監視していた。
板ばりの床に円座すら出さなかったのだが、泰明は正座した姿勢のまま
微動だにしていない。
「お待たせしました」
「遅い。何をしていたのだ」
泰明がまっすぐに鷹通を見つめてきた。それに冷たく反応し、口元に微か
な笑みをはきなながら、鷹通は言った。
「ここは治部省です。今日は八葉としてではなく、公用で呼んだのです。
従七位でしかない身分をわきまえて下さい」
「私には関係ない」
「京に住まい、官位を持つ以上、それで済ませるわけにはいきません」
立ったまま見下ろしていた鷹通が膝をついた。
「用件を言いましょう」
眼鏡の奥の瞳がすっと眇められた。
「あなたは誰ですか?」
ふいの問い掛けが理解出来ず、泰明は首を傾げた。
「おまえが何を言っているかがわからない」
「では、こう問いましょうか。あなたは何処で生まれ、父母の名は何という
のですか?」
「それは・・・」
泰明の膝に置いた手が握られた。答えられるはずのない問い。彼には生んで
くれた女などいはしないのだから。
動揺からか、初めて泰明が身じろいだ。とたんに、僅かではあるが花の香り
がしたように鷹通は感じた。
香でも着物に焚き染めているのだろうか、と思ったが、この年上の男にはどう
にも似つかわしくない。身分のせいではなく、雰囲気がである。
しかもその匂いは香のように人工的ではなく、野に咲く花の自然な香りだった。
このような香を鷹通は知らない。
わからない事が腹立たしくて、鷹通の心はさらに冷ややかさを帯びた。
「言えないのですか? 道端に捨てられている赤子のように、何も知らないと
でも?」
「私は・・・」
「姓は安倍氏ですね。あなたは晴明殿の表沙汰に出来ない子ですか?」
「違う! 師匠は関係ない」
「しかし、否定されても、身を証する事は出来ない・・・と」
鷹通とて、龍の宝珠を抱く者を排除する事が無理とはわかっていた。
不審な存在を神子に近づけないようにと最初は考えていたのだが、事あれば
咎は師ある晴明に負わせれば良いのだ。
こんなに華奢な体を持つ泰明である。力で鷹通に敵うはずもない。
膝に置かれた手指は白く滑らかで、武具など触った事もないだろう。貴族の
男子として情勢不穏な昨今、弓くらいは嗜みの一つであるはずだが、泰明の
親も晴明も、ずいぶん箱入りに育てたものだ。
肌の白さは陽に当たった事が少ないからだろうか。御簾の奥で暮らす女では
あるまいにと鷹通が顔を顰めた。
「私の何を証すれば良いにだ」
泰明に悪びれた様子はなかった。京と戸籍の問題を本当にわかっていないの
かも知れない。
ありえないと思いつつも、鷹通は浮かんだ疑問を拭えなかった。
「言葉で言えなければ体で。貧しき下々の生活を経験した者は、隠しても痕跡が
姿に残ります。晴明殿のお屋敷に引き取られるまでのあなたを知るには良い
方法だと」
着物を落せと言われて、泰明の頬がかっと染まった。
「人並みに屈辱を感じられているのですか?」
泰明がさりげなく周囲を窺っているのがわかる。しかし扉近くにいるのは鷹通だ。
戸籍を保管する治部省は、警護の問題から部屋に出入り口は一つだけと定めら
れている。この部屋から泰明が逃げようとすれば必ず鷹通と擦れ違わなければ
ならない。
当然ながら、鷹通はそのような事を許すつもりはなかった。
「聞こえませんでしたか? 脱いで下さい」
きつい光を乗せて、泰明が睨みつけてきた。
「−−−断る」
「ではあなたを捕らえなければなりません。身元不明の者を弟子に置き、官位
まで進めたとして、晴明殿にとっても大問題になるでしょう」
「鷹通・・・っ!」
「どうされますか? もし私を振り切れたとしても、あなたに戻る場所が定まっている
以上、すぐに掴まってしまいますよ?」
くくっと突然鷹通が笑いだした。
「まだわかりませんか? 私はここだけの話にして差し上げても良いと言っている
のです。同じ白虎でも職務上、友雅殿のように華やかに暮らすわけにもいかず、
退屈していましたから」
泰明は唇を噛んだ。ぎりっと音がするほどそれはきつく、切れたのか血が滲み出した。
「私がおまえに従えば、師を煩わせないのか?」
「・・・約束しましょう」
軽く鷹通は眼鏡に触れた。
「ただ、私を満足させられなければ、今の約束、破ってしまうかもしれません」
「おまえがそのような者だったとは」
「知りませんでしたか?」
血を拭う為の布を鷹通が差し出した。
「どうぞ。体を傷つけるのは感心しませんね」
「・・・?」
「口元です」
唇の血に泰明は初めて気付いた。布を押し当てても、僅かな量でしかなかったが、
鷹通は咎めている。
「どうぞ。先程私が言った事をして下さい」
促されて、泰明の指が帯へと伸ばされた。
一度屈してしまえば、際限のない連鎖になる事を、泰明は知らないらしい。理を
詰めて鷹通の行いの卑劣さを訴えれば、逃れる道が開けたかもしれないのに。
泰明の年齢に似合わない、奇妙に無垢な部分に鷹通は興味を覚えた。
「さあ、楽しませて下さい」

卑怯な鷹通・・・。