呼吸する空気全てが凍りついてしまう寒さに、泰明は身を縮めた。
両手で肩を抱き、少しでも冷気から庇うように小さく。
衣を重ねてみても、隙間を縫って冬の寒さは染み行ってくる。京の乾いた風とは違い、
今泰明を侵しているのは、湿った水を交えた冷たさだった。
北山の紅葉が終わりを告げる頃、泰明は京を離れた。
器としての生命が与えられてから、一度も出た事のない平安の都を後にして。
南へ向う街道を徒歩で進んだせいで、目的の場所についた時には師走も半ばを過ぎて
いた。
彼の師、晴明のように騎馬や車に乗る身分ではない泰明では、ただ歩むだけが手段
だった。
その師と二人・・・ここ、紀伊の南、那智にいる。


誘われるように泰明は扉を開けた。
一条に建てられた屋敷より、格段に小さな家。一つだけの棟はそれだけ外へと近い。
岩盤上にあるせいで草木一つない庭を歩き、表へと続く門を開く。
天空の高みから落ちる大滝が、すぐ傍にあった。
初めてそれを見た時から、理由もわからず泰明は魅かれていた。
このように大きな滝を目にする事がなかったからだけではない。胸の何処か・・・深い
部分がちりちりと音を立てるように、ざわめくのだ。
畏れだろうか。
魅かれていても泰明には近寄りがたい場所だった。
晴明は日に一度、訪れるがそれに従う事はなかった。師もまた、咎める事をしなかったの
で泰明は眺めるだけの存在でしかない。
質量の多い水にかき消されるのか、山は白く煙っているのに、周囲には雪は降ろうとも
しなかった。
滝に背を向け、泰明は門を出て背後の森へと分け入った。少しだけ・・・ほんの僅か部屋
を温める木の枝を集める為に。
命尽きていない樹木から枝を取る事は晴明に戒められている。朽ち落ちた物も穢れとして
また。
一つ一つ幹に触れ、中に流れる息吹を感じ取って行く。
しんと静まり返った森のなか、滝の音だけを聞いて、存在する精霊に我が身を同調させる。
世界の全てに、常の人間なら決して触れ合う事のない物達はいた。
泰明も花々の間から意識を与えられた者。彼らには近い場所にいるのだ。例え魂核が
晴明の陰の気であっても・・・紫の花弁を持つ儚い花から切り離せはしない。
生きている樹を手折れば、声にならない悲鳴がしじまを縫う。命に気付かず、この地に来た
ばかりの頃は誤って幾度も手折ってしまった。
その度に与えられたのは手酷い折檻で・・・。
晴明を受け入れる事で目覚めた体は、晴明に与えられる苦痛にのたうった。
吐き出す息が白く染まっていた。
指先を温めようと口元に当てても、既に感覚がなくなるほど凍えてしまっていた。
「は・・・」
冬に身を潜めているだけか、それとも命尽きているのか・・・。
見極める為にゆっくりと泰明は足を進めた。
この世での生命を終えた樹木は人に使われるだけの物だと晴明は言った。
人の役に立つ為にあるのだと。
ただそれも、地に朽ち落ちてしまえば大地の表面を覆う穢れを含んでしまうので、使っては
ならないらしい。
大気の中に屍を晒す樹より、糧を得よ・・・と。
目的の樹をようやく見つけた泰明は、襟に忍ばせていた懐剣を取り出した。武士でもなく、
下賤の地位にもない泰明が唯一持つ事を許されている刃物である。
鉄に晴明の呪いが施されているそれは、小さいながらも鞘から抜き取っただけで、星が散る
ような煌きを放った。


腕に抱えられるだけの枝を持ち帰った時には、既に来迎の時刻は過ぎていた。
紀伊の山、古の修験道にもその流れを汲む陰陽師としては、太陽が生まれる瞬間を作業に
費やすなど、忌避される事だった。
慌てて木々を片付け、縁に回ると白い薄物を纏っただけの晴明がいた。
この寒さをまるで感じていないかのように。着物だけのせいではない、白い肌はその内に
流れる命脈すら隠している。
触れれば冷たい師もまた、泰明と同じく高天原の神々から創られた人とは違う存在なのかも
しれない。
見つめてくる視線が冷たくて、泰明は地面に膝をついた。
「そこにいては寒いだろう。足を洗って上に上がると良い」
「・・・はい」
感情を見せぬまま、晴明は踵を返して中へと入っていった。それに小さな安堵を覚え、積んだ
木を幾つか腕に泰明は師を追った。
火鉢に収まるよう砕き、炎を灯す。たった一つの鉢だけではいくらも暖かくはならないが、それ
でもそのささやかな熱は心を休める。
泰明が起居する部屋に灯し、それから晴明の部屋へ。
着替えと湯の用意をしたら、朝餉の支度をしよう。木立の中に枯れずに残っていた山菜を味噌で
煮て、赤い米を炊いて・・・。
ふっと庫裏にある食材を考えた泰明の思考は、晴明のいる場所に入った時に遮られた。
腕を取られて板張りの床に引き倒されたのだ。
結い上げていない晴明の黒髪が、表の滝のように流れ落ちてきた。
泰明から周囲を見る視界を奪い、黒い牢獄に閉じ込められたような思いを抱かせる。
「師匠・・・」
「私に満ちる陰気を受け入れよ」
言葉少なに告げられる。
そう、泰明はその為に創られたのだから。
背から伝わる冷たさに顔を顰めながらも、泰明は瞳を閉じた。
この僅かな抵抗も今だけと知りながら。
すぐに身を裂く苦痛に泣き叫ぶとわかっていて・・・。

楽園シリーズ以来の鬼畜師匠シリーズ開始です。
今回の舞台は那智。紀伊の南、今の和歌山にある神域です。
晴明はここを何度か訪れ、修行もしたそうです。晴明と、泰明と式だけが登場する、とっても
インドアな話です。