闇が、深い。
御簾が下げられた中にいても、その深さは伺い知れた。
泰明は壁に凭れ、溜め息を吐いた。不自然な姿勢に体の筋が引き攣れる。腕は高々と上に
伸ばされ、壁に穿たれた杭に拘束されていた。足首は床に、首までもがご丁寧に。
「おや? それほどショックを受けていないようだね」
扇の先が、細い顎に掛けられた。
「私が何を思うというのだ」
「・・・ふふ、人形らしい物言いだ」
煩わしいと、泰明は僅かに動く顔を逸らせた。
「目的は知らないが、私を捕えてみた所で、ただ飽いるだけだと思うが。人とは時の流れが違う」
「飽きてしまうほどの時間を与えるつもりはないけど、ね。興味が湧いた。一度、人でない物を
抱いてみたかった、それだけ」
「戯れを」
「信じてもらえないとは残念」
男が笑うと、薄い色の髪が揺れ、泰明に触れた。
「まだ陽が高い、どうにも趣に欠ける。暗くなってから、私の言葉の真偽を知るといい」
泰明はきっときつい瞳を向けた。
「私をこのようにして・・・」
最後まで言う事は出来なかった。男が唇を合わせてきたのだ。冷たい接吻が長く泰明を襲った。
喘ぎかけた唇は割られ、相反して生温かい舌が侵入する。
「ん・・・、んっ」
かちり、と異質な音がした。
「では、また夜に」
視界の届かない方向へ、男が去って行った。
項垂れた泰明は、気配が完全に消えると、留めていた荒い呼吸を繰り返した。男の前では
平静を装ってはいたが、心は動揺で満たされていたのだ。
何故、このような事をされるのかが、わからない。
何をされるのかがわからない。
抱く・・・交わるという事。知識でしか泰明は知らない。
・・・橘友雅、彼の真意が、わからない。
舌先にある硬い物を、泰明は転がした。先程の接吻で、友雅が含ませたのだ。気をつけないと、
鋭い切っ先で口中を傷つけてしまいそうだった。何とか唇にまで異物を持って来ると、向ける限り
上を向き、掌にそれを吹き投げた。
小指の辺りでかろうじて受け止めたのは、黒曜石の破片。これで、縛めを解いてみせろという
事か。
手首を縫いとめる縄に、そっと、黒い石を宛てた。少しずつ擦り、時間を掛けて・・・。

泰明が自由を取り戻した頃には全身がびっしょり汗ばんでいた。
まだ早春の気温は低く、瞬時に汗は冷え、体が震えた。
「・・・ここは、何処だ?」
見知らぬ部屋。
ふいに襲われ、意識を失わされて連れられた。京の何処に位置するのかも窺われない。力が
働かない。
「つっ・・・」
手首が痛んだ。うっすらとうっ血の跡が残っている。
表へ出れば、気の流れがわかるだろうかと・・・泰明は垂れる御簾を上げた。
「何・・・」
向こう側はぴったりと閉じられた扉だった。普通、御簾をこのように使いはしない。薄い扉を泰明
から隠す役にしか立ってはいないのだ。
「一体・・・」
扉は薄い。なのに、外の気配が伝わって来ないのだ。
幻しの世界に紛れ込んだような錯覚を泰明は覚える。
「まさか」
異質な世界は、ただ人が知る事など出来はしない。友雅は明らかに、力を持たぬ者ではないか。
「このような扉など・・・」
簡単に開くはずだった。軽く横にスライドするはず・・・の扉、力をいくら入れても、動こうとはしない。
狼狽が泰明に浮かんだ。
縛めを解いても、外に出る事叶わなければ、囚われている事に変わりはない。
友雅の嘲笑が聞こえるようだ。わざと縄を解く術を与え、獲物に一時の安堵を与える。それが
失望に変わる瞬間のダメージは、より大きく、痛い。
「・・・呪符」
気づけば、扉には何枚もの白い紙が貼られていた。
人でない物を封じる、札。
宮に仕える一介の者が知りえるはずがない。
「まさか」
見上げた紙に、墨で書かれた文字を、泰明は知っていた。それはあまりにも見慣れた筆跡。
「師匠がされたのか・・・」
泰明はわからない、と頭を抱えて蹲った。
何故、と。
獣のようにあの男に抱かれる事を師は望んでいるのだろうか。
「・・・抱かれる・・・」
背筋にぞくりと冷たい物が走った。
それは純粋な恐怖。
「嫌だ・・・」
未知への恐怖。
御簾の向こうは先程より光が薄れていた。じきに陽が暮れるのだ。夜になれば抱く、と友雅は
言った。
その夜が、来る。
泰明は周囲を見渡した。元よりさして大きくはない部屋だ。調度もほとんどなく、身を隠す場所
などありはしない。
四肢が冷たく震えていた。汗で体温が奪われたばかりでない事は、自身が一番知っていた。
「私は、恐れている」
膝を抱え、壁際に蹲った。少しでも体を小さくすれば発見されないかとでもいうように。
春分を迎えていない早春の太陽は、無情に翳っていく。
忌むべき、夜が訪れる。

                 で、続きます。