闇に包まれた中、とろりと澱む蜜のような気配が漂っていた。全ての者を
蕩けさせてしまうような気。淫靡極まりない。
楊ゼンは独り横たわる寝台で瞳を開いた。時刻は死気が生気に変わる頃、
即ち日付が新しくなる真夜中だった。半分とはいえ、妖しの血を継ぐ楊ゼンに
とって、力が衰えていくのがわかる。人の血がそれを押し留めようと蠢く。
妖怪は死気−闇夜−の生き物。人や動物は陽の下に住まう事を許された
生気の生き物。
何気なく外を見やって、空に月明かりが無い事に気づいた。今宵は新月で
あった。
月の力さえ得る事が出来ない、最悪の日。
−−−なのに。
彼が来ている。

−−−暗夜 1−−−

汲み上げた水で顔を洗い、体を清めてから服を着替える。水で清めなければ、
昨夜の気を濃く纏わせているように思えたから。
結局あれからはうつうつとした眠れぬ夜を過ごした。寝不足の頭はすっきり
しないが、病などと言って、引っ込んでいるのは、彼の手前、プライドが許さ
なかった。
・・・楊ゼンがダイニングに入ると、そこにはすっかり朝の用意がされていた。
本来なら楊ゼンがするべき事を、彼、太乙は平然と奪ってしまう。
「おはよう。弟子なのにちょっと遅いかな?」
太乙がにっこり笑ってコーヒーを出した。玉鼎はおらず、二人だけではどうして
良いかわからなくて、楊ゼンは気まずさを隠すようにコーヒーを口に運んだ。
「う・・・っ」
濃いストレートに楊ゼンが顔を顰めた。
「ああ、君には砂糖が必要だったね。忘れてた。君の為に蜂蜜がけのパンケーキ
まで作っていたのに」
テーブルの上を砂糖壺が滑ってきた。
「甘い物が好きなんて、まだまだ子供だね」
パンケーキの皿を渡し、自身のコーヒーカップを持って太乙は向かいに座った。
「太乙様が思われるほど、僕は子供ではありません」
「あははっ」
口元に手を当てて太乙が笑い出した。華奢な体から、肩口で切り揃えられた
髪が揺れた。
「君は幾つになった?」
止まらぬ笑いに涙さえ浮かべて、太乙は楊ゼンを見やった。
「・・・15です」
「成長途上のおぼこじゃないか、くくっ」
馬鹿にされたと感じた楊ゼンが、きっと顔を上げた。
「でも、師匠と太乙様がされている事は知っています!」
「へえ・・・」
笑いの質が冷たくなった。
「一体何を知っているんだい?」
「全部です」
「だから一体何を? 言ってごらんよ」
追求されるとまで考えていなかった楊ゼンは口篭もってしまった。
「それは・・・」
「子供がくだらない好奇心を起こさない事だ。それとも私達に抱かれたい?」
「抱かれる?」
楊ゼンが首を傾げた。
じっと色の薄い太乙の瞳に見つめられ、四肢の先に冷たさが起こった。冷気は
どんどん広まって、体が麻痺していく。
原因が太乙の呪だとわかる頃には、僅かに動く事さえ出来なくなっていた。
「して、あげようか。師兄と私で」
「あ・・・・・・」
「君が大好きなあの人だから、初めて開くのはしてもらった方がいいだろう?」
「嫌だ」
とっさに口をついて出た言葉だが、本心からではなかった。上辺だけの抵抗
など、永い時を生きた太乙に通じはしない。
「違うよね? 君は師兄に、師と弟子以上の感情を持っている」
否定は出来ない。
師弟として一線を引いていれば、このように太乙が訪れる度、心乱されるわけが
ないから・・・。
太乙が皿からパンケーキをフォークに刺して、楊ゼンの口元に寄せた。
「口、開けて」
素直に唇を緩めた奥に、蜂蜜のいっぱい掛かった黄色いケーキを入れてやる。
「ご飯を君に食べさせてあげるのって、幼児の時以来だね。美味しい?」
マーガリンとハニー。甘い砂糖を含ませた味が広がる。楊ゼンではとても同じ
物は作れず、玉鼎が料理など出来るはずもなく、この味を与えてくれるのは
太乙だけなのだ。
楊ゼンが金霞洞に引き取られた時には既に、太乙は寄り添うように玉鼎の側に
いた。人間世界を知らぬ楊ゼンには、普通にある事だと思えた。
それが嫉妬に変わったのは何時からか。勿論、嫉妬などという感情を誰も教えは
しなかった。だから表す言葉を知らない。
しかし、心に湧くどろどろした暗い思い・・・。
目の前で太乙はゆったり笑んでいる。
”何故こうして僕の前で笑えるのか”
わからない、わからない、わからない!!
「夜になったら迎えに行く。逃げたりしたら許さないから。きつく折檻してあげるよ。
私はまだ君より強いのだから。理由を何とつけても・・・ね」
太乙がすっと立ち上がった。途端に楊ゼンを束縛する力が消え、ぐったりとテーブル
に突っ伏してしまう。
「師兄、おはよう。朝稽古の帰り?」
明るい太乙の声が遠くから響くように感じられた。

続きます・・・・・・

またしても三人絡みです。でも今回、玉鼎影薄っ。
次はがんばって、師匠いっぱい書きます。
1は朝の対話なので、明るい壁紙v