黄巾力士の降りる振動音が伝わってきた。
三尖刀で打ち込み練習をしていた楊ゼンは、屋敷の方を見やったが、すぐに槍を

握り直した。
金霞洞を突然訪れるのは太乙ぐらいだったから。彼ならば迎えなくても、勝手に
上がり込んで来る。目的も、師である玉鼎に会う事なので、必要を感じなかった。
汗に濡れて貼りつく前髪を掻き上げ、右足に重心を掛け、体を回転させる。
木を打つ鈍い音が響いた。
「ふう」
神経を整える。呼気は深く、身を大気に同化させるように。
そんな楊ゼンの前に、両手で持てるほどの玉が現れた。広い金霞洞で連絡を取り合う
のに使う言霊だ。
「師匠、何かご用ですか?」
鍛錬を止められる事はめったになかったので、訝しげに問い掛けた。
「客がおまえに会いたがっている。すぐに来なさい」
用件だけが簡単に語られ、玉は現れた時と同じく、虚空に消えた。
「僕に客・・・?」
わざわざ玉泉山を訪ねて、楊ゼンを呼ぶなど誰だろうか、と思いながら、三尖刀を木に
立て掛け、屋内へと向かった。


「あなたは・・・」
楊ゼンは瞳を見開いた。
「こんにちは」
片手を上げてにっこり笑ったのは、短い水色の髪を持つ、十二仙だった。玉鼎に向かい
合う形でソファーに掛けて、紅茶のカップを掌で包んでいる。茶葉の香気がふんわり室内に
満ちていた。
雰囲気から、二人がかなり寛いでいる事が窺われる。
「普賢様」
「ん?」
白い指がテーブルの菓子を摘んだ。
「こちらに来て挨拶をしなさい」
突っ立ったままの楊ゼンに、玉鼎が形の良い眉を顰めた。
「構わない、師兄」
「どうにも無作法な弟子で申し訳ない」
「この子らしい」
ふわ、と普賢が首を傾げた。仕草の一つ一つがあどけなく可愛い。しかし、彼の本性を
知っている者はどれくらいいるのだろうか・・・?
「客を弟子ではなく師が迎える所なんて初めて。木タクがやったら、きっと僕は酷く怒る」
赤すぎる唇から、辛らつな言葉が発せられた。ただ、口調があまりにも穏やかなので、
聞き流してしまいそうになる。
大きな瞳が、ちらりと楊ゼンを見た。
「玉鼎師兄が優しい方で良かったね。こっちにおいでよ。扉開けたままだと寒いでしょ?」
「楊ゼン」
師にまで促され、仕方なく楊ゼンは彼らより僅かに距離をおいて座った。普賢にされた
事を思えば、すぐに逃げ出してしまいたかった。
いきなり訪れた普賢は、楊ゼンが九宮山から椿を持ち帰っていた花盗人だと玉鼎に
告げてしまうかもしれなかった。あれだけ責めても、まだ楊ゼンを許したと言っては
いないのだ。
「僕が嫌い?」
優しい顔に憂いが広がった。
「いい加減にしないか、楊ゼン。普賢はおまえの好きな物を届けてくれたのだぞ」
「これだけど」
菓子皿の横にある布で覆われている箱を普賢は示した。
「開けてみてくれる?」
「・・・はい」
楊ゼンは布を持ち上げた。その表情が蒼白の色を帯びた。
「どう? 素敵でしょ。 気に入ってくれたらいいんだけど」
蝋でコーティングされた紅い椿の花がガラスケースに収められている。
「ほう、美しいな。ここにも何時の間にか寒椿がかなり咲くようになった。楊ゼンがよく
世話をしているからな」
「そう」
背筋に冷たい物が走るのが楊ゼンにはわかった。
「良い花だよね。雪の中に彩りを添えて」
流れる動作で空いたカップに紅茶を注ぎ、普賢が楊ゼンに渡した。
「君の部屋にでも飾って欲しいな。ところで気になったんだけど、どうして西側の窓の
カーテンが下がっているの? まだ昼間なのに」
「楊ゼンが最近照り返しがあると言って、な。窓は他にもあるし、別段気にしてなかったが」
「照り返し?」
立ち上がり、普賢が窓に寄った。
「お止め下さい、普賢様」
楊ゼンの制止はさりげなく無視されてしまう。
「射すかなあ」
ひょいとカーテンが持ち上げられた。
「・・・なるほど」
一人納得して元のソファーに戻る。
「確かにちょっと照るかも、師兄」
「私だけが気にならないとは」
玉鼎が苦笑した。
「さて、私は出かける用事があるのだが、楊ゼンに会いに来たようだし、ゆっくりして行くといい」
「師匠!」
道服の裾を楊ゼンが引いた。
「失礼をきちんと詫びて、彼の相手をしなさい」
縋る手を退け、玉鼎は楊ゼンに命じた。
「いっぱいお喋りしようよ、楊ゼン」
「普賢もああ言っている事だ。明日の朝には戻る」
表情で訴える楊ゼンに必死な思いが込められている事に、気づいているはずなのに玉鼎は額に
接吻して部屋を出ようとした。
玉鼎は普賢が何をしたか知らない。楊ゼンが隠して言わなかったからだが・・・。


師が去った扉を呆然と楊ゼンは見つめた。
「ふふ・・・」
背後から笑い声が聞こえた。
「師兄からお許しを貰った事だし、何をして遊ぼうか。ねえ、楊ゼン?」
びくりと楊ゼンが竦んだ。
「心配しないで。体に傷つけたりはしないから。内側は保証出来ないけど。師兄に見つかったら
大変でしょう?」
「だったら・・・お帰り下さい、普賢様」
「嫌」
唇がにっこりと吊り上がる。
「重力を使う僕に、君は敵わないのだから、大人しく一緒に遊ぼう」
禍々しい、言葉。
これからされる事の恐怖に、足から力が萎えていくのを楊ゼンは感じた。

続きます。またしても意地悪っぽい普賢です。彼はただ楊ゼンで遊びたいだけ?