洗い上げた髪を一纏めにして、玉鼎は湯から立ち上がった。水を含んだ髪が、
   ずっしりと重い。
    「楊ゼン、危ないから私の後ろを歩くのは止めなさい」
     さすがに玉鼎も、髪の重さに足元がおぼついていなかった。
    「タオルがいると思って」
    幼いなりに気を利かせて、自分がいつも使っている犬がプリントされたバスタオルと
   一緒に、ちょこちょこ付きまとっている。
    楊ゼンの体ほども大きいタオルだったが、玉鼎の地を這うほどの黒髪には何の
   意味もない事はわかっていないようだ。
    「サンルームへ行くからついておいで。・・・その前に私の部屋からブラシを取って来て
   くれないか」
    玉鼎の為の用事が言いつけられたのが嬉しくて、跳ねるように楊ゼンは走り去った。
    子供の機嫌を損ねないで−楊ゼンはかなり泣き虫なのだ−何とか追い払えた事に
   玉鼎は安堵の息を吐く。
    髪に気を取られていると、小さな体を踏みつけてしまわないとも限らない。
   「戻るまでに、たどり着いていなければならないな」
    床に触れないよう、抱えた髪を再びぐっと持ち上げた。
    楊ゼンがブラシを持ってくる前に、サンルームに入らなければ、元の木阿弥である。
   また幼子は、タオルと、今度はブラシまで手にして纏わりついてくるだろう。
     ぽたぽたと雫が滴った。もっと絞ってくれば良かったなどと考えても、再び地下の
   浴室に戻る気にはなれなかった。
    「しかし重い。これでは地引網ではないか」
    いっそ太乙のように、短くしてしまおうか? と髪を洗う度に玉鼎は思う。伸ばしている
   事に意味などないのだから、落としても問題はなかった。
    最近は楊ゼンまでもが真似をして、髪に鋏を入れられるのを嫌がった。


    サンルームは、屋敷の最上階に造られていた。そこは、天井がなく、代わりに上一面に
   西域産のガラスが嵌め込まれている。さんさんと陽光が降り注ぐ空間で、玉鼎は床より
   高くなった場所に髪を広げて横になった。
    何時もこうして髪が乾くまでの時を過ごす。書は墨が濡れるので持ち込めず、書き物も
   仰向いた姿勢では出来ない。
    退屈でする事のない時間だった。
    廊下を軽い足音がかけてくる。すぐに顔を上気させた子供が飛び込んできた。  
   「ブラシは見つかったか?」
   「はいっ」
    言って、柄の長いブラシを差し出した。
   「ちょっと高い所にあったから、椅子を持って行ってやりました」
    得意げな楊ゼンを見ながら、玉鼎はこめかみに指を当てた。
   ”これは部屋が散らかっているかもしれないな”
    目的以外は目に入らないのが子供である。
    内心で溜息をついたが、表情には出さず、玉鼎は指示を与えた。
   「ブラシで髪を梳いてくれるか?」
   「僕がやっていいんですか?」
   「おまえの他に誰がいる」
    玉鼎が髪を触らせてくれるのは初めてだった。乾かしているのを目にするのも。平たい岩の
   上一面に髪が広がっているのが楊ゼンには珍しい。
    いつもしてもらう髪梳きを、自分がするのがとてもわくわくした。
    ブラシを持って、楊ゼンは横にぺたんと座った。
    少し戸惑いながらも、思い切ってブラシを下ろし、流れに沿って右から左へと梳く。
    洗ったばかりの髪は驚くほどスムーズにブラシが通った。
   「師匠の髪きれい・・・」
    うっとり楊ゼンが呟く。
   「僕も早く師匠みたいになりたいな」
   「おまえは髪を伸ばしたいのか?」
   「でも・・・」
    楊ゼンの顔が突然曇った。
   「変な色だから、僕のはいっぱい長くなっても、きっと師匠みたいにきれいじゃない」
    玉鼎は一房楊ゼンの髪を摘んだ。
   「明るい昼間の蒼天の色だ。何故変などと思うのだ?」
   「だって人にはこんな色ないでしょう?」
    楊ゼンの言葉を玉鼎が遮った。
   「自分の事を変だと言う子は私は嫌いだ」
    青い瞳に涙が盛り上がるのを拭ってやりながら、玉鼎が幼い顔を見つめた。
   「もっと自信を持ちなさい。確かに珍しい色だが、私はおまえの髪が気にいっている。
   恥じる事が何処にある」
    寝転んだままではどうにも様にならないな、と玉鼎は苦笑した。
   「師匠大好き」
   「こら、おまえの服が濡れてしまう」
    抱きついてきた楊ゼンを一応は制止したものの、玉鼎も手を回して並んで横になるのを許した。
    子供特有の高い体温が寄り添う。
   「じゃあ嫌いなワカメもがんばって食べて、早く長くします」
   「では私が結ってやろう。玉で飾れば、きっと似合う」
    玉鼎が身につけ、所有しているのは人工のトンボ玉。とりどりの色の美しさが楊ゼンは大好き
   だった。
   「嬉しいです」
    首を伸ばして玉鼎の頬に口付けて、楊ゼンは体を丸めた。
    親鳥の羽の下で安心しきっている雛のように。