楊ゼンは窓わくに肘をついて外を眺めていた。
    昨日から降り続いている雨が、彼を屋敷に閉じ込めてしまっている。少し先も
  見えないほどの土砂降り。土と緑と雨の匂いでむせ返るようだ。
    雨は嫌いだった。外に出る事が出来ないから。遊び盛りの子供にとって、表へ
  行けないというのは、苦痛以外の何物でもなかった。
    屋敷の中に一日いると時間を持て余してしまう。書物がふんだんにある他は、
  物がほとんどない金霞洞なのだ。このまま雨の日が続いたらどうしようかと楊ゼンは
  真剣に悩んだ。
  「師匠・・・」
    書庫の扉を少しだけ開いて、楊ゼンが中を覗いた。
    玉鼎は朝からここに篭っているのだ。
    まだあまり字の読み書きが出来ない楊ゼンは、付き合うか、と言われて、逃げ
  出してしまっていた。
    戻って来た気配に玉鼎が振り返った。
  「どうした?」
  「僕もいていいですか?」
  「退屈になってしまったようだな」
  「はい」
    おいで、と手招きされて、玉鼎の膝の上に座った。
  「髪が濡れているな」
    楊ゼンの晴れた空を映した髪がしっとり湿っていた。
    どうした、と尋ねられて、素直に答える。
  「ずっと窓辺にいました」
  「ああ、これは雨の香りか」
    玉鼎が匂いを嗅いだ。 
  「くすぐったいです、師匠」
    くすくす笑って楊ゼンが身を捩った。
  「着物まで湿っているではないか。濡れたままでいると風邪をひいてしまうから、湯を
  使いに行こう」
  「師匠のお仕事の邪魔になってしまいます」
    膝から降ろされた楊ゼンが玉鼎を見上げた。
  「構わぬ。休憩したいと思っていた所だ」
  「でも・・・」
    玉鼎が小さな体をひょいと抱き上げた。
  「おまえが湯を嫌いな事くらい知っている」
  「だったら、僕、着替えますから・・・いいでしょう?」
    動いたせいでバランスを崩しそうになって、玉鼎にしがみつく。
  「いや、だめだ」
  「僕はや、です!」
    じたばた暴れる楊ゼンを地下の浴室へ連れて行く。個々の部屋にもバスタブは置かれて
  いるのだが、ゆったり体を伸ばせるのは地下のここだけだった。
    金霞洞の地下は湯がこんこんと湧き出る泉になっていた。工夫を凝らされ、奥の一面
  からは外の光が入るようになっている。(尤も、今日のような日では意味がないが)
    この泉が屋敷中を適度な湿度に保ち、岩に冷やされた水蒸気が夏の暑さを和らげるのだ。
    闇を怖がる楊ゼンの為にふんだんに明かりを灯してやる。
    仄かな燭明かりも多くなれば、周囲の岩肌を充分に照らす事が出来た。濡れた岩に光が
  当たってきらきら輝く。
    帯を解き、着物を全て脱がされてしまう頃には、諦めたのか、楊ゼンは大人しくなっていた。
  「良い子だ」
    楊ゼンを後ろ抱きに、玉鼎は湯の中に座った。少し熱めの湯が触れた途端、楊ゼンが
  強張った。
  「よしよし、大丈夫だ。何も怖がる事はない」
    早くも桜色を浮かべた顔から、前髪を払ってやった。
  「数を教えてやっただろう? 50まで数えたら出てもいい」
    楊ゼンは首を傾げた。
  「数? 数、・・・えっと・・・」
  「おや、忘れてしまったか?」 
  「ごめんなさい・・・」
    しゅんとうな垂れた楊ゼンの耳元に接吻し、玉鼎は宥めた。
  「手を貸してごらん」
    幼い掌を上から自分の手で包み、指を一つ一つ折り曲げさせる。
  「1,2,3・・・次は?」
  「4、です」
  「おまえの頭はきちんと覚えているようだ。では私の為に9まで言ってくれないか?」


    新しい着物を着せられた後、楊ゼンは窓に近づく事を禁じられた。
  「開けたままでもよいが、また濡れるといけない」
    離れたカウチに一緒に座らせ、さくらんぼの実を口に入れてやった。
  「おいしい」
  「これは今の季節が一番甘い」
    さくらんぼがいっぱい入った小籠を楊ゼンに与えると、彼の目の前に持ってきた絵巻物を
  広げた。
    子供に文字を教える物だった。
  「雨は明日には止むだろう」
  「師匠はわかるんですか?」
  「大気の流れが告げている。おまえが独りで淋しくないよう、今日はこうして過ごそうか」
  「師匠大好き!」
    抱きついた楊ゼンの手から落ちた籠を、玉鼎が危うく受け止めた。
  「こら、楊ゼン」
  「えへへ」
    玉鼎が側にいてくれるなら、雨の日も悪くないなあ、と流れる黒髪を見つめながら楊ゼンは
  思った。
    雨と緑の匂い、そして玉鼎の香り。    
    温かく包まれながら、楊ゼンがにっこり笑った。