「どうして、そんな事を言うのですか?」
       楊ゼンが玉鼎を見上げた。
     「おかしいか?」
       パジャマの襟を直してやりながら、玉鼎は膝を付いた。
     「いいかい楊ゼン、赤ん坊でもないのに、いつまでも私のベッドで眠るのは変だと
     思わないかい?」
       ちょこんと楊ゼンは首を傾げた。とたんに頭にかぶっていた熊の帽子が落ちてしまった。
     「だって・・・」
       昨日までいいって言ってくれたのに、と楊ゼンは考えた。
       楊ゼンが金霞洞に引き取られてから半年目の事である。初めての夜、一人で
     眠れず、家を恋しがって泣いた幼子を、玉鼎は自分の部屋へ運び、腕に抱いて休ませて
     やった。以来ごく自然に楊ゼンは彼の師の部屋の住人となったはずだったのだが。
     「もう夜に泣く事もなくなった。これ以上私の室にいる理由などないだろう?」
       青と黒を基調にした玉鼎の部屋を楊ゼンは眺めた。
       今、楊ゼンは入口の所で、入室を阻まれている。
     「僕が嫌いになったのですか?」
       玉鼎が蒼い前髪を分けて、小さな額に接吻した。
     「何故?」
     「太乙様は師匠のお部屋に平気で入っています。僕だけ駄目だなんて」
       くすくすと玉鼎は笑った。
     「彼が気になるのか?」
     「師匠といたい。ずっと、ずっとです」
       胸に包まれ、腕に抱かれるのが心地良かったから。母を知らない楊ゼンが初めて知った
     温かい場所。
       玉鼎といるのがいい。楊ゼンには独りで、がらんとした自分の部屋で寝る事など考えられ
     なかった。
       実際、最初の日以来、与えられた部屋には入っていない。必要がなかったからだが、
     物に拘らない玉鼎が用意したそこには飾り気など何もないのだ。
       子供でなくても、殺風景な淋しさに一歩引いてしまうだろう。
     「欲しい物があれば揃えるといい」
     「嫌・・・」
     「楊ゼン」
        少しきつい声を玉鼎は出した。
     「気になるなら、太乙の事も考えてみなさい。おまえが部屋にいるから、彼はこの頃来ない
     だろう?」
     「あの人は僕よりずっと大人です」  
       楊ゼンの瞳が潤んだかと思うと、ぱたぱたと涙が滴った。
     「どうして意地悪言うんですか、師匠」
       しがみついて小さな手で玉鼎を叩く。
     「意地悪、意地悪!」
       玉鼎の道服に涙が染みた。
       溜息を吐いて、玉鼎は楊ゼンを抱き上げた。
     「困った子だ」
       ピンク色に上気した頬を流れる透明な雫に唇を寄せ、吸い取ってやる。 
       このまま、今日もここで休ませようか、と玉鼎は考えたが、頭を振って否定した。
       甘やかすのは簡単だ。しかし楊ゼンの為にならないのも確かだった。
       楊ゼンが玉鼎の弟子となってから一年の半分。そろそろ金霞洞の生活に慣れてきた頃
     のはずだ。けじめをつけさせるには丁度良い時期だろう。
       玉鼎が与えた楊ゼンの部屋は、彼の私室−今二人がいる場所−と同じフロアで、距離
     も離れていない。何かあれば、すぐに行ってやれるのだ。  
       子供には大きすぎるベッドに寝かせたのだが、楊ゼンの小さな手が、着物の裾を掴んで
     放そうとしなかった。 
     「・・・楊ゼン」    
     「僕をお部屋に入れて下さらないなら・・・ここにいて下さい」   
        玉鼎がいなくなれば、止まった涙がまた溢れてしまう・・・独りで暗がりに残されてしまう
     のは、楊ゼンにとって怖くてたまらない事だった。
        闇に沈んだ金鰲の妖怪として生を受けた者にしては、異質な性格だ。
     「一人ぼっちにしないで、独りはいやあっ」
        衝動的に玉鼎は幼い体を抱きしめていた。
        子供特有の高い体温が、触れ合った所からじんわり広がった。 
     「師匠、行かないで・・・」 
        伸ばせるだけ腕を伸ばして、楊ゼンがしがみついてきた。
     「わかった。今はまだ一緒にいてやろう」 
     「本当?」
     「ああ、だからもう泣かないでおくれ。私が初めておまえに出会った時にも泣いていた。おまえが
     泣いているのを見るのが私は辛い」
       楊ゼンが顔を上げた。視線の先には玉鼎の暗い瞳があった。闇と同じ色なのに、これだけは
     平気だ、と楊ゼンは思う。
       心が安らぎに満ちていくのだ・・・。
     冷たかったベッドももう温かかった。   
       母を知らず、幼いまま生まれた場所からさえ遠ざけられた楊ゼンは、まだ幸せという言葉を理解
     していなかった。
       頭で知る物ではないと玉鼎はいつも教えていたのだが、経験がない事を識るのは難しかった。 
       しかし、今玉鼎に包まれているのが幸せではないだろうか・・・温かくて、気持ち良くて、楊ゼンは
     うっとりした眠りに落ちた。