夏の気配を感じさせる風が、太乙の髪を弄った。肩にに触れたあたりで切り揃えられた毛先が、
バサバサに乱れてしまう。
「嫌だなあ」
毒づいてみるが、両手が塞がった状態では、撫でつける事も出来なかった。
オーブンから出したばかりの熱いパイが、彼の持つ大皿の上に鎮座している。今年取れ始めたば
かりの林檎をふんだんに使い、砂糖は少なく、シナモンは多めに。
太乙の恋人好みに焼き上げられたアップルパイ。ただし、右1/4ほどは砂糖たっぷりの子供向き
だった。
涼しい木陰のテーブルに、手早く茶の用意をしてから太乙は屋敷に目をやった。
「では呼びに行こうか。私が連れ出さないと、一日中でもこもってるからなあ」
今の時間だと書庫くらいかな、と考えて歩き出す。日々こまっしゃくれてくる子供が、木立の先で遊
んでいるので、玉鼎は自分の事をしているはずだから。
窓が閉めきられた書庫は、昼間にも関わらず薄暗かった。陽が当たると墨が変色するという理由で、
玉鼎は光を入れる事を嫌がる。手元を照らす燭一つだけが、かろうじて物が読めるほどの光源だ。
背後から静かに近づいた太乙が、隣の椅子にすとんと腰を下ろした。
「師兄」
「どうした?」
広げた竹管から目も上げずに玉鼎が言葉を返した。
いつもの事だけに太乙は気にした風もない。俯いた顔に落ちかかる髪が色っぽくて、ついうっとりと
眺めてしまう。あの髪が、自分を抱く時には、鎖のように纏わるのだ。
妄想に、太乙は頭を振った。
「お茶を煎れたよ」
「そうか」    
「お菓子も作った。外に行こう」
強引に手を引かれるのに、玉鼎は溜息を吐いた。
「屋敷の中が先ほどからざわついていたので、おまえが来ているのはわかっていたが」
「台所を使っていたからね。でも私だって断言は出来ないだろう? ここにはもう一人住んでいるのだから。
楊ゼンだって考えなかった?」
「あの子なら、朝から薬草を摘みに外に出している」
「木立の間から、哮天犬と転げ回ってるのが見えたけど」
苦笑が玉鼎の形の良い唇から漏れた。
「以前はそんな感じに笑う事なんてなかったのに」
机に頬つえを付いて玉鼎を見やる。近頃訪れる度に、ここ金霞洞が明るく・・・文字通り・・・になって
いくのがわかるのだ。
閉じたままだったあちこちの窓が開かれ、さり気なく花まで飾られているのだ。玉鼎がしそうにない事
なので、最近引き取られた子供のせいなのは明らかだった。しかし、それを拒むでもなく受け入れている
玉鼎が太乙には不思議に思われた。  
「取りあえず行こうよ。こんなに良い天気なんだからさ」      
「天気? 太陽を遮る物がなければ、晴れるのは当たリ前だ」
「ああもうっ! 理由なんて何でもいいんだよ。私は、師兄とお茶が飲みたいんだ」
玉鼎は竹管を机の端に纏めた。
「おまえには敵わぬ。私が行くと言うまで食い下がるつもりなのだろう?」
「決まり決まり」   
太乙の感情を表すように、領巾がひらひらと揺れた。
先ほど用意したテーブルに玉鼎の姿を見つけた楊ゼンが走ってきた。薬草を入れる為に持ち出した、 
体の半分ほでもある籠を引き摺りながら。
並んだり少し遅れたりしながら、仔犬も一緒にかけていた。
玉鼎に抱きつく前に、思い出したように太乙を振り返り、ぺこりと頭を下げた。 
「こんにちは太乙様。いつも玉泉山へのお来し、お疲れさまです」
「かわいくないなあ」 
太乙がこづこうとしたが、楊ゼンはすばやく玉鼎の後ろに隠れてしまった。
「私は君に嫌われるような事を何かしたかな」 
抱き上げられて、玉鼎の膝に座った楊ゼンが、小首を傾げるようにして見つめてきた。
幼い精神では、何故太乙を好きになれないのかはわからなかった。嫌いまで進展していないのが、
互いにとっては良いのか悪いのか。
もし本当に嫌われていたなら、太乙も悪戯という名の様々な目に会っているだろう。
「いいけどね。君に何て思われようと、私には関係ない。私がここに来るのは玉鼎の為だから」   
肩を竦めて太乙はティーポットを手に取った。
それが、楊ゼンと太乙の問題だという事に二人とも気づいていない。要は玉鼎を独占したいだけなのだ。
「楊ゼン、籠の中が花ばかりではないか」   
確かに楊ゼンが運んだ籠には、薬草ではなく、とりどりの花でいっぱいに埋まっていた。
「あっちにたくさん咲いてたの」 
「私は薬草を、とおまえに頼んだはずだが」 
少し長くなり始めた空色の髪を、玉鼎が指に絡めながら問うた。
「だってとてもきれいで・・・」 
玉鼎に気に入られなかったと思った楊ゼンがシュンとうな垂れてしまった。
「花を飾る入れ物が何か必要だな。摘んでしまった物をそのままにしておけない。後で探してやろう」 
「本当に?」 
楊ゼンが玉鼎の首にしがみついて軽く接吻をした。
「ほら、お茶が入ったよ。君にもパイをあげるから、フォークは使えるようになったのかな?」
最初から楊ゼンの為に甘く作ってある部分を切り与えてやるのに、わざと意地悪く太乙はからかう。
「使えるもん!」
「君だって成長するんだ」 
楊ゼンがぷいと横を向いた。ぎこちなくフォークを握り、パイを口に運ぶ。甘酸っぱい味が広がった。
「けっこういけるだろう?」
悔しいけど、楊ゼンにはまだ玉鼎に美味しい物を作る事は出来ない。お茶の煎れ方は太乙に教えられたが、
一人でやってみてひっくり返してしまった。  
料理の作り方を玉鼎が知っているとは思えないので、彼の為なら、今目の前にいるあまり好きではない仙に
習うしかないのだ。 
嫌なことだが、太乙ほど長く玉鼎の側にいて好みを知り尽くしている者もいないのだから。
「今日は本当に良い風が吹いてる。暑くもなく寒くもなく。夏なんか来ないで、ずっとこの季節で止まって
くれたら、いいのにね」 
太乙が髪を掻き上げた。
楊ゼンの頬についたパイの欠片を玉鼎が摘まんで口に含んだ。
甘すぎる、という声がそよぐ風に溶けた。