空は今一つすっきりしなかったが、梅雨にしては珍しく雨のない朝だった。
起きるのをぐずる子供を起こして、果実の朝食を取らせ、玉鼎は自分の仕事を
する為に書庫に入った。
楊ゼンには知能を高める事になると最近手に入れた積み木を渡してある。
これで昼くらいまでは大人しくしているだろうと思った。5つになったばかりの子供
はいたずらざかりなのだ。
色んな事に興味があるらしく、玉鼎も度が過ぎる以外はあえて手出しをせずに
ほおってある。先々に回ってしまうのは、成長にさわりがある、というのが、彼の
教育方針だった。
1刻ほどが経過した頃、外が急に賑やかになって、玉鼎は額に手を当てて
しまった。
どうやら昼までも持たなかったようだ。
雨上がりのぬかるみで転びはしないかと、窓を開けてみる。手出しはしないものの、
心配症になるのは仕方がない。まだ生を受けて5年にしかならない相手なの
だから。
「あ、師匠ー」
目ざとく玉鼎を見つけた楊ゼンが窓の下に走ってきた。
買ってやったばかりの長ぐつが、びしゃびしゃ泥を跳ね上げている。両手に抱え
きれないほどの紫陽花の花を持っているので、視界が狭まり足元はかなり危なっか
しかった。
「見て下さい。お花、こんなにきれい」
精一杯背伸びして玉鼎に差し出す。
「そうだな」
「このお花、雨で色が変わるって」
「一人でこんなに切ったにかい?」
「はい。サロンに鋏があったので」
「・・・ああ。だが私は積み木をおまえに渡しておいたはずだが?」
「それは・・・」
悪い事をしたのかな、と思ったようだが、俯いて花の香りを嗅ぐと気分が良くなった。
玉鼎にも早くこのいい香りを味わって欲しい。
「師匠ー」
玉鼎に遠いので受け取ってくれないのかと、楊ゼンがもっと背伸びをした時・・・足が
つるりと滑った。
「ああっ」
泥の中に小さな体が倒れてしまう。晴れた青い空を映す髪が、瞬く間に汚れてしまった。
「痛あい!」
師の前なので、泣かないように、歯を食いしばって身体を起こしたのだが、そこで嫌な
事を見つけてしまった。
膝が擦りむけて血が滲んでいたのだ。
「えええええんっ」
周囲に散らばった花の海の中で、楊ゼンは座り込んだまま泣き出した。
「痛い、痛いよっ」
「楊ゼン」
長く床につく着物が泥に塗れるのも構わず、玉鼎は窓を乗り越えて、地に降り立った。
花ごと両手にすっぽり収まる体を抱き上げてやる。
「手当てをしてやろう。血などすぐに止まる。テープを貼れば見えなくなるだろう?」
「嫌、師匠、汚れてしまいます」
玉鼎が白い着物を着ていたので、慌てて楊ゼンが腕を突っ張った。
「大人しくしなさい。私が嫌いかい?」
幼子が幼いなりに気を使っているのがおかしく、つい意地悪な言い方をしてしまう。
「違います! 師匠は・・・大好き」
「わかっている」
「本当に?」
涙を残した大きな瞳が、くるりと玉鼎を見上げた。
「勿論だ」
額に軽く接吻し、泥だらけの腕が回し易いよう、首を傾けてやる。
柔らかい手が応えてきゅっとしがみついてきた。


盥に張った湯で体を洗ってやると、犬のように頭が振られた。
「髪も洗わないと駄目だろう?」
「だって、目にシャンプー入ってしまいます」
「目を開けているからだろう?」
「閉じても・・・おっ」
玉鼎が頭を胸に引き寄せ、有無を言わさず頭から湯を掛けた。
「やああっ」
離れようともがくのを許さず、シャンプーをつけて伸ばし始めたばかりの髪を洗う。
「んんんっ」
拳が嫌がって何度もぽかぽか玉鼎を打った。
「ほら、まだおまえは短いからもう終わりだ」
ざあっと湯で流し、手早くタオルで覆ってやった。
「まだ短い・・・」
一房落ちた髪を楊ゼンは手に取った。
「師匠みたいになりたいのに」
「切らずにいればいずれそうなる。だがその前に洗うのを嫌っていては話にならぬ。
汚れたままで伸ばすくらいなら、私は切ってしまうだろう」
「や・・・っ、切らないで。僕もう嫌がらないから」
「明日から証明してもらおう」
楊ゼンがぎくっと体を強張らせた。
「明日も洗うの?」
「夏が近いのだ。当たり前ではないか」
べそをかきそうな体を湯から抱え出し、バスタオルを纏わせる。
「さあ。花をお置いたままでは可哀想だ。摘んだかあには花瓶を探してきて入れなさい」
「はあい」
小さな楊ゼンが部屋から走りでようとして、ふと足を止めた。
「どうした?」
床にある花から一束を抜き、玉鼎に差し出す。紫の一番きれいにそまった花だった。
「でもこれは師匠に」
「ありがとう」
温もりが好きな楊ゼンを今一度玉鼎は抱きしめてやった。
二人の間で、花のふわりとした匂いがした。

とっても久しぶりの子供楊ゼンでした。