ふわふわと水鳥の羽がいっぱい詰まった布団に眠る幼子は、まだこの世界にやって
        来てから間がなかった。
         意識と呼べる物もなく、開く事を覚えたばかりの瞳が時折動くばかり。
         色は暖かな春の海を思わせた。
         肺が上手く呼吸する事を知らなくて息苦しい。しかし、苦しげに喘ぐとすぐに光を
        遮る影ガ現れた。
        「楊ゼン」
         音。
         視界に黒い絹の流れが映る。
         楊ゼンにとって、その音に意味がある事はわからなかったが、耳に心地よい響きだった。
         黒は初めて目にした色。
         優しげな笑みが降ってくる。
        「あ・・・」
         小さな手が伸びた。暖かなものを求める本能的な行動だ。
        「眠れぬか?」
         玉鼎が腰掛けた寝台がきしりと沈んだ。
         名群れないのではない、幼子は眠りたくないだけなのだ。温かい物を少しでも長く
        捕まえておきたくて。
         眠ってしまえば、きっとどこかへ行ってしまうから。
        「今夜は月がきれいだ。見に行こうか」
         瞬間、小さな体が抱き上げられた。
         周囲にすかすかした空気が流れ、安定感がなくなってしまったが、不思議と怖いとは
        感じなかった。
         実際は、赤子を抱く玉鼎はかなり危なっかしげであった。幼い者に触れるのは楊ゼンが
        初めてなのだ。 
         羊の毛で織られた布がくるくると巻かれた。玉鼎は過保護なところがあるらしく、何時も
        必要以上に楊ゼンは色んな物を纏わされてしまう。
          楊ゼンは温かい胸に包んで貰えるだけで充分なのに。
         連れ出された外は、冬の冷気に満ちていた。寒さに、布の中へ鼻先を潜り込ませよう
         とした楊ゼンが、頭上に輝く大きな月に気づいた。
         青い瞳が天空にかかる不思議な球体を驚いて見つめた。
         ざわ・・・と幼い体の奥深い場所で何かが蠢いた。精神がざわめいて落ち着かない。
        「月に惹かれるか?」
         背を優しく撫ぜられた。
         楊ゼンの半分を占める夜の住人の血。妖怪の本性が燻る。
         頭の横で丸まっていた二本の角が、ぴんと尖り出した。
        「人でありなさい」
         玉鼎の声が僅かにきつくなった。 
         ぎゅっと抱きしめられる。着物を通して、玉鼎の鼓動だ聞こえてきた。
         とくん、とくん、とくん・・・
         それは心の荒波をゆっくり静めていく効果を持っていた。
         腕がぱたりと落ちた。楊ゼンは額に接吻されるのをうっとりした思いで受ける。
         軽い遊泳感。玉鼎が手近な岩に腰を降ろす。
         彼が多くの事を語りかけた。
         楊ゼンはじっと聞き入っているが、わかりはしない。それがもどかしい。
         勿論玉鼎とて、赤子に言葉がわかるなどとは考えていない。わかっていても、愛しい
        小さな魂を放ってはおけないのだ。
        「ん、ん、ん、」
         脚をぱたぱた楊ゼンは動かしてみる。揺れる感情を理解して欲しくて、でも方法を
        知らなくて。
        「楊ゼン・・・?」
         抱いてくれる温かな体が困惑を表していた。
         だからもっと動かした。
         喉の奥からせリ上がる。一緒にいて嬉しい、包んでくれて暖かい、思考が回って、
        ぐるぐる・・・。
         苦しい、何・・・、
         ふっと得た閃きは、電気ショックにも似て、楊ゼンの全身を巡った。
        「あ・・・あっ」
        「どうしたというのだ、楊ゼン」 
         アーモンド型の瞳が、明るい月を映した。
        「し、しょー・・・」
         抱きしめる腕がぴくんとした。
         驚いて首を傾げた玉鼎から、髪がさらさら流れた。
         闇と同じ漆黒なのに、怖くない。何時までも触れていた楊ゼンの好きな色。
        「一番初めにおまえは私を呼んでくれるのか」
         音がした。玉鼎が悦んでいるのを知った。
         楊ゼンは嬉しくなってしまう。
        「ししょ、ししょっ」
         舌足らずな唇で、初めての言葉を何度を紡ぎ出す。
        「おまえが愛しいよ」
        「・・・・・・」
         ちょんと見上げた玉鼎の顔に、透明な水があったような気が楊ゼンはした。
         手を伸ばす。慰めてあげたくて。 

         それからも、多くを玉鼎は語ってくれた。
         幸せで・・・何時意識がなくなったのかは、わからなかった。

         月の大きな夜の話。

         これは、師匠サイドからのバージョンもあります。
         「アルビオン」というサークル様から発行されるUGという本にゲストと
         して書かせて頂いています。師匠サイドはそちらに。
         楊ゼンが初めて喋った日というのを書いてみたかったのです。