「師兄はいないの?」
           訪れた金霞洞の屋敷を歩き回ったあげく、玉鼎を見つけられず、太乙は仕方なくサロンで
          机に向かっている楊ゼンに尋ねた。
           聞こえているはずなのに、子供は振り向きもしなかった。
          「楊ゼン」
          「勝手に見て来られたのではないのですか?」
           あなたは他人です、と言外に含んでいる口調である。
          「可愛くないなあ」
           太乙はつかつかと近づき、頭からまっすぐに生えている角をきつく引っぱった。
          「痛い! 何をするんですか!」
           角だけで持ち上げられそうになって、楊ゼンは力いっぱい太乙の手をはねのけた。
           蒼い大きな瞳が睨んだ。
          「目上の者への礼儀はどうした?」
           楊ゼンが自分を好きでない事を知っているから、余計意地悪く問うてやった。返事がないので、
          後ろから彼が向かっていた竹管を取り上げる。
          「・・・!」
          「これは何かな?」
           ぐしゃぐしゃと、字とも絵とも判別出来ない物が無数に書かれていた。
          「どう見ても、字の勉強している感じには見えないけど」
           玉鼎が書き与え、楊ゼンの前に置かれている手本とは似ても似つかない。
          「今からやろうとしてたんです」
           きまり悪そうに頬を染め、小さな手が竹管を奪い返した。
          「そう?」
           太乙が首を傾げる。
          「淋しいんだろう? 玉鼎がいなくって」
          「太乙様には関係ありません」
           唇を楊ゼンは尖らせた。幼い仕草だったが、勉強していなかった事を言いつけられはしないかと
          いう思いがあるのだろう、角がしおしおと丸まった。
          「手伝って欲しい事があるんだけど」
          「僕は字をやるのです」
          「玉鼎が好きな物を作るんだよ」
           ぴくりと楊ゼンが反応した。
          「師匠が好きな?」
          「そうだよ。勿論来るだろう?」
          「・・・はい」
           楊ゼンは、彼にとって高い椅子から飛び下りた。


           太乙が表に運んだ低い桶の中に、籠いっぱいの葡萄を空けた。
          「昨日摘んで来たのに!」
           乱暴にしたら、潰れてしまうと楊ゼンは叫んだ。
          「君が食べたい分はまた取っておいで。これは全部潰すんだ」
          「どうして? 美味しくないです。そんなの」
          「師兄が時々飲んでいる赤い飲み物はこれだよ」
          「だって葡萄だったら、師匠は僕に下さります。でも僕には早いって・・・。だから違います。太乙様の
          嘘つき」
           い−っと楊ゼンは顔を顰めた。
           屋敷に戻りかけた子供の襟首を太乙は捕まえる。
          「や・・・っ、離して下さい」
           宙に浮いた足を楊ゼンがばたつかせた。
          「靴を脱いで、ズボンも汚れるから取って」
           太乙は片手で器用に楊ゼンから奪うと、ぽいと樽に投げた。
          「うわあっ!!」
           柔らかい果実に足が滑る。
          「踏んで潰すんだ」
          「気持ち悪いいい」
          「ぜ・ん・ぶ」
           太乙もまた靴を脱ぎ捨て、樽に足を踏み入れた。
          「私もするから、早く終わるよ。結果がどうなるかは、後でわかるから」
           桶いっぱいの葡萄は二人がかりでも半刻近くかかった。
           涼しい秋の風の下、汗を出して息を弾ませている楊ゼンの背を太乙は軽く叩いた。
          「これっぽっちで疲れていてどうする?」
          「しんどくなんかありません」
          「ん、男の子だね」
           潰れた果実から溢れた果汁を、太乙はグラスに取って与えてやった。
          「飲んでごらん」
          「え・・・?」
           楊ゼンが紫色の液体を見つめた。
          「まだこの段階では君にも大丈夫」
           半信半疑で口を付けた楊ゼンは甘酸っぱさに夢中になった。
          「美味しいです」
          「だろう? これを、大きな樽に詰めて熟成させた物が玉鼎が飲んでいるやつ。あっちはアルコール
          入りだから大人向け」 
            毎年、大した量ではないが、太乙は玉鼎の為に作っているという。
          「今日のはまだまだ出来上がりじゃないけど、毎年一つずつ増やしていく。二つでも三つでもなく
          一つだけを」
            その貴重な一樽を作るのを手伝わせた太乙の真意は何だろうか?
            楊ゼンは紫になってしまった足を投げ出して座った。
            疑問を口にするのが、はばかられるような気がした。
          「樽詰めはさすがに手伝わせられないから、君の仕事は終わり」     
            視線を感じた太乙がうっすら笑った。
          「後少し、いていいですか?」
          「いいけど、もうあげないよ」
          「わかってます!」
          「はいはい」
           太乙がくるりと背を向けて樽の中身を運びやすいよう、瓶に移し始めた。