天空の、崑崙にある玉泉山は、地上より高い場所にあるせいで、少し
     早く夏の終わりを迎えていた。
      空がずっと遠くになってしまったと、楊ゼンは幼い手を上げた。流れる雲も
     遥かな天の蒼を透かして、真っ白ではない。それが何故だか物悲しい。
     「楊ゼン」
      ふわりと肩に上着が掛けられた。楊ゼンが振り返ると、玉鼎がゆったり
     微笑んでいた。 
     「もう、朝の空気は冷たい」
      夜着のまま外に出たのを咎められているのだろうかと楊ゼンは思った。
      玉鼎が既に道服に着替えていたから。
      楊ゼンの表情に気づいた玉鼎は、地に腰を降ろして手招いた。
      膝にちょこんと座った子供の着物は、大気と同じ温度になっていた。とっさに
     蒼い髪を分けて、額に触れてみたが、発熱はしていないようだ。
     「師匠?」
      アーモンド型の大きな瞳が見つめてきた。
     「僕は大丈夫です。・・・でも」
      楊ゼンが口篭もった。
     「どうした? 私の前では何も遠慮する事はない」
     「はい、ええと・・・、上手くは言えないのですけど・・・」
     「構わぬ」
     「空が淋しくって泣いてるみたいで・・・、僕も淋しくなります」
      玉鼎が腕を楊ゼンに回した。袂の長い道服では、小さな楊ゼンはすっぽり
     包まれてしまう形になる。
      密着した体から布を通して玉鼎の鼓動が感じられた。金霞洞に引き取られて
     から何度も、楊ゼンが淋しさに泣く度に、玉鼎は胸に抱いて寝かしつけた。
      幼くして家から離された楊ゼンにとって、安らげる場所は、玉鼎の鼓動のある
     所だけだった。
     「季節が変わったのだ」
     「季節?」
      楊ゼンが首を傾げた。
     「暑い夏が終わると、秋になり、そして冬が来る」
      金ゴウの闇で育った楊ゼンは季節を知らない。外に出た事すらない子供 は風も
     空も緑も知りようがなかったのだ。
     「秋、冬・・・。僕が初めてここに来たには、温かい時でした」
     「冬の後に来る春だ。併せて四季。世界はこの4つが、永遠に巡り続けている」
     「じゃあ秋も終わるんですね?」
     「そうだ」
     「良かった。僕でなくっても、淋しいのは辛いです」
      玉鼎が、楊ゼンの手を引いて立ち上がった。
     「少し出かけようか」
      楊ゼンは何処へ、とは尋ねなかった。師が危険な所に連れて行ったりするはずが
     ないのだから。
      飛行能力を持った騎獣の背に二人は乗った。玉鼎が手綱を握り、前に楊ゼンを
     座らせる。
      すぐに獣は上へと疾走を始めた。鬣にぎゅっとしがみついたゆ楊ゼンを、膝と腕で
     しっかり支える事で安堵させた。
      高度を上げ、広い範囲が見渡せる位置で、玉鼎は停止した。
     「下を見てみなさい」
      怖々視線をずらせた楊ゼンは、山の色が変わっているのに驚いた。
     「師匠、これは・・・」
     「きれいだろう?」
     「どうしてですか? 木の葉っぱはずっと緑でしたのに」
     「変わらない物もあるが。このように色づき、山は実りに包まれる」
      山の中腹に玉鼎は下りた。 
      近くにあった枝から梨を取り、楊ゼンに渡す。
     「秋の実りだ」
     「わあ」
      甘い水をたっぷり含んだ果実に楊ゼンは歯を立てた。
     「すっごく美味しいです」
     「おいで」 
      楊ゼンの手を繋いで、玉鼎が歩き出した。
     「この季節は人間にとって一番過ごしやすい。暑くもなく寒くもなく。食べる物にも
     困らない。反対に次に来る冬は辛い。秋に蓄えないと、春を迎えるまで生きる事
     は出来ない」
      真面目な顔をして楊ゼンは聞いている。
     「人間にいい今を、淋しいって思う僕は変なのでしょうか? 心がまだ妖怪のまま
     だから?」  
      角に触れられて、小さな体が竦んだ。最近では2、3日に一回くらいは消せるように
     なっていたが、今日は出たままである。
     「いいというのと、好きというのは一緒ではない。あまえのように感じる者もいる」
     「はい」
      にっこりと楊ゼンが笑った。
      落ちていた楓の黄色い葉を拾い、自分に言い聞かせるように呟く。
     「きれいな葉っぱ。僕が好きになってあげる」
      葡萄に栗に・・・山にはたくさんの果実が実っていて、籠を持ってくれば良かったと
     楊ゼンを悔しがらせた。
      尤も、楊ゼンがいつも使っている物では、梨が二つ入ったらいっぱいになってしまう
     のだが。
     「また連れて来てやろう。今度は馬で、たくさん籠を付けて」
     「約束です」
     「ああ」
      それで楊ゼンは葡萄一房を持って帰るだけで我慢した。
      反対側は、手を繋ぐ為に空けておかなくてはならなかったから。
   

      秋の太陽が高くなり、楊ゼンを温めた。