楊ゼンは走っていた。長すぎる道服の裾に何回も転びながら。
             幾度めかに、強く擦った膝から血が滲んだ。
             「痛・・・い」
             床に膝を抱えて蹲る。目の前に傷ついた部分があって、楊ゼンの瞳に
            涙が浮かんだ。
             誰も助けてくれない。誰も傷を洗って包帯を巻いてくれたりしない。
             楊ゼンは怪我をしているというのに。
             小さな体は、しばらくじっと動かなかった。
             薄闇が周囲を覆いだした。
             しおしおと項垂れていた頭が気づいて上げられた。
             また、夜が来る。
             楊ゼンの一番嫌いな時間が。
             「や・・・」
             独りは怖い。独りは嫌だ。独りは・・・。
             光は、廊下の角にふいに現れた。光源は長い指に持たれた燭台から発せ
            られていた。
            「楊ゼン」
             玉鼎が不審そうな表情をして近づいた。
            「私が戻ったのに、迎えてもくれないのか?」
             楊ゼンの前に屈んだ玉鼎の視線が少し強くなった。
            「これは私の着物だな」
             座っている為にすぐにはわからなかったが、楊ゼンは玉鼎の服を無理に
            纏い、帯で括っていた。
            「またいない間に部屋に入ったのか」
             ぷいっと楊ゼンの顔が背けられた。
            「こちらを向きなさい。あんなに良い子だったのに、最近のおまえはどうしたと
            いうのだ」
             楊ゼンは頬を両手で挟まれた。
             玉鼎からは空と、外気の匂いがした。
            「私がいつもこの時間に帰る事は教えてあるはずだが」
            「答えなさい、楊ゼン」
             まだ肩までの長さしかない蒼い髪がふわりと揺れた。 
             幼い子供の気が不安定に乱れている証だった。
             玉鼎が目元に残った涙を拭ってやる。
             急に楊ゼンが立ち上がった。
            「楊ゼン?」
             身を翻して、楊ゼンは離れた。そのまま振り向きもせずに走りだす。
             子供が消えた先を、理由がわからないと首を傾げて玉鼎は見つめた。


            「嫌い、嫌い!!」
             階段を駆け下りて楊ゼンは、突き当たりの扉を開けた。
             色々な食物の香りが、部屋には満ち溢れていた。
             キッチンである。
            「あれ? 楊ゼン」
             料理をしていた太乙が手を止めた。
            「どうしたんだい?」
             椅子にかけるように言って、太乙は自分も向かいに座った。
            「玉鼎が帰って来ただろう? 会いに行ったのかな?」
             名前が出た途端に楊ゼンの顔が曇った。
            「この頃玉鼎は忙しいみたいだね。朝から出かけて、毎日こんな時間まで
            戻らないんだから」
             太乙は楊ゼンのいでたちに気づいていたが、その事については何も言わな
            かった。
            「冷たい物でも出してあげようか。でも、夕ご飯の前だし、ちょっとだけだよ」
             早摘みの葡萄を絞ったジュースに、氷を落としたグラスを太乙は渡した。
             近づいて触れた太乙の服を、楊ゼンが掴んだ。
            「うわっ、驚いた」
             太乙が慌ててバランスを崩した小さい体を支えた。
             ふええ・・・と楊ゼンが泣き出す。
            「よしよし」
             背中を何回か擦ってやる。楊ゼンの涙の原因も、着物のわけも、太乙には
            わかっていたから。
            「玉鼎が構ってくれないから淋しいんだよね」
             淋しくて哀しくて、気を引こうとわざと悪い事を楊ゼンはしているのだ。
             子供の弟子を取った経験のある太乙はすぐに理解したが、それがない玉鼎
            にとっては、悪い子になったとしか思えないかもしれない。
            「師匠なんか、嫌い・・・」
            「だけど、独りでいるのも嫌なんだろう? 好きじゃない私の所に来るぐらいだから」
             楊ゼンがばっと顔を上げた。
            「あなたも・・・」
            「もういいよ」
             太乙は楊ゼンを肩に担いだ。まだ小さいせいで、華奢な太乙でも抱えられた。


             玉鼎の前に子供を置いて、太乙が事情を説明した。
             黙って聞いていた玉鼎は楊ゼンを引き寄せて抱きしめた。じたばたと暴れはしたが、
            すぐに幼子は大人しくなった。
             包まれた全身がほんわり温かくなる。
            「淋しい思いをさせた」
             玉鼎が囁いた。
            「おまえが孤独や闇を嫌うのを知っていたのに。もうおまえを独りにはしない」
            「元始天尊様の仕事があるんだろう?」
            「放っておくさ」
             おかしそうに太乙がくすくすと笑った。
            「20年くらいしてから気が向いたらやったら? 私立ちに時間は無限にあるから、急ぐ
            事なんて何もないよ」
             言い残して太乙はキッチンに戻って行った。 
            「・・・ごめんなさい、師匠」
            「いや」
             二人は焦れた太乙が夕食を呼ぶまで、淋しい時を埋めるほど話をした。