崑崙に引き取られた楊ゼンが初めて迎えた夜の話。 [ COCO ] から抜粋        

        夜半、玉鼎はがたがたとものを引き摺る音に気づいた。
        眠りにつく前の一時を寝台でゆったりと過ごしていた玉鼎だったが、物音が屋敷
       内から響いているのがわかると身を起こした。
        暗い廊下を楊ゼンの部屋へと向かう。屋敷には彼以外には楊ゼンしかいないのだから、
       原因はあの子供だけだ。
       「楊ゼン?」
        大きな扉は、楊ゼンには上手く開くことが出来ないようだった。彼が唯一持って来た木の
       鞄を下げて、もどかしそうに扉と格闘している。
       「何をしているのだ?」
        玉鼎は近寄って屈み、楊ゼンの肩に手を置いた。
       「夜は冷える、風邪をひいてしまうから、ベッドに戻れ」
       「師匠。もう遅いので、僕は家に帰ります」
        ぺこりと楊ゼンは頭を下げた。半ばまどろんだ瞳は朦朧として、彼の意識が現実の世界
       にないのが伺われる。
       「帰るって・・・何処にだ?」
       「お父さまのところです。僕をきっと待ってて下さるから」
        父親にもう帰れないと言い含められていたにも関わらず、幼い楊ゼンには事の本質が
       理解されていなかったようだ。夢見心地の今では、特に精神の深層が覗いているのだろう。
       「楊ゼン・・・」
       「いや、・・・家に帰る・・・僕はいい子にしてるから・・・」
        楊ゼンの顔が苦渋に歪んだ。
       「僕は悪い事はしない、だから・・・僕を嫌いにならないで・・・」
        続いたのは悲鳴。
        言葉にならない音と共に暴れる子供わ、玉鼎はただ抱きしめることしか出来なかった。
       「落ち着け、楊ゼン。ここは金鰲ではない」
       「いやーーー!」
       「流れた涙が燭明かりに煌めく。
        振り上げられた拳が、見知らぬ者から逃れようと、何度も玉鼎の胸に叩き付けられる。
       「怖い、怖い・・・」
       「私がついている、楊ゼン」
       「あなたは誰? お父さまー」
       「おまえの父親はもういないのだ」
        玉鼎は幼子を抱きかかえ、寝室へと運んだ。金霞洞の屋敷の中で、玉鼎の部屋だけが
       かろうじて人の温もりがあったから。
        先ほどまで自分が横たわっていた寝台へ楊ゼンを寝かせる。
        暖かい空間に落ち着いたのか、ぐすぐすという啜り泣きを僅かに残して楊ゼンは静かに
       なっていた。
        泣き疲れた顔が腫れぼったい。
        与えられた部屋に独り残された後から泣いていたのだろうか。
       「楊ゼン、私はおまえに何をしてやれる・・・」
        引き寄せた椅子に腰掛け、玉鼎はあまりにも幼すぎる表情を見つめた。
        上掛けから出ている手に触れれば、その掌は今まで知らなかった温かさを伝えてきた。
       「おまえは温かいな」
        包んだ手を、自分の頬にそっと当てる。
       「これが子供というものか・・・」
       「・・・師匠」
        楊ゼンが不思議な気配に瞳を上げた。
       「良くなったか?」
       「僕、ここは・・・」
       「私の部屋だ」
       「師匠が連れて来て下さったのですか?」
       「ああ」
        空の色をした髪を玉鼎は優しく辿った。
       「まだおまえには辛い事かもしれないが・・・家には戻れないのだよ、楊ゼン。例えおまえが
       どんなに望んだとしても」
       「どうして帰れないの?」
       「おまえは崑崙と金鰲の間を保つために差し出されたのだ。勿論こちらからも、子供が一人
      行っている」
       「その子も泣いているかなあ」
       「・・・さあ」
       「もうお父さまには会えないの・・・? お母さまのように」
        楊ゼンの母親は、彼が生まれて間もなく死んだと玉鼎は聞いていた。
       「おまえの母親とは違うが、会えないという点では同じだろう」
        再び泣き出しそうになった楊ゼンに、言葉を続けた。
       「生きていれば別れは必ず訪れる。おまえはそれが人より早かっただけだ。私とて、崑崙に
       来たばかりの頃は、夜毎故郷を思ったものだ」
       「師匠も・・・?」
       「私だとて人並の感情はある。ただ・・・あまりのも長い時を生きたから、時々それを忘れ
       てしまう」
       「寂しかったのですか」
        楊ゼンが体を起こし、寝台の上に正座した。
       「僕がいます。師匠は一人ではありません」
        幼い慰めに玉鼎が微笑んだ。
        一体どちらが寂しがっていたのかわからなくなるような台詞だったせいで。
       「部屋に戻ります」
        すとんと降りかけた楊ゼンを玉鼎が制した。腕の中に収まった楊ゼンの視線が不安げに
       ゆらいで見上げてくる。
        もしここで楊ゼンを離したら、彼の心は閉ざされてしまう事がわかっていたから。
       「私の寝台は、一人で眠るには広すぎる。子供が増えたとて、何の支障もない」
        楊ゼンの顔がぱっと輝いた。
       「ここにいてもいいのですか?」
       「いつもとはいかないが」
       「ありがとうございます。じゃあ師匠はこっち」
        ごそごそと身じろいで、楊ゼンは寝台の端に寄った。
       「もうお休み。子供には夢を見る時間が多く必要だ」
       「・・・はい」
        安心できる場所を見つけた幼子が、急速に眠りの淵へと落ちていく。
        眠る寸前に、楊ゼンの唇が小さく「お父さま・・・」と呟いた。
        玉鼎の瞳がすっと眇められる。髪が乱れるのも構わず、楊ゼンの顔の横に手を
       付き、ぷっくりした頬に接吻した。
       「ここが、おまえの家だ・・・」

        部屋の窓から差し込んだ月の光が、玉鼎を白く照らしていた。