私は走っていた。
  広い屋敷は、明かりが落とされていて、幾度も私は躓いた。
  それでも、走らずにはいられなかった。
  走って、逃げて・・・心から安堵出来る私の道府に戻りたかった。
  もともと、体力のあまりない私の体は、走り続ける事に悲鳴を上げている。
  鼓動は痛いほどに跳ね、呼吸が苦しい。額から流れた汗が眼に入って、
視界が霞んだ。
  しかし、体のダメージはこれだけが原因ではないのだ・・・。
  足を動かす度に、秘められるべき奥深い場所がつきつきいたんだ。
  夜毎、男を受け入れさせられているから。
  そこは、過度の拡張擦過に痺れ、何時も何かを含んでいるような錯覚を
私は覚える。
 「あ・・・」
  かくんと膝が崩れた。
  意思を裏切り、私の体は歩みを止めた。立ち止まると、もう走れなかった。
  動く事さえ嫌になり、床に私は座り込んだ。
  今日も、駄目だった。
  立てた膝に顔を埋める。頭を包んだ手から伸びる鎖が足に触れ、私はその
存在を思い出した。
  両手は、手首の所で一つに纏められ、拘束されていた。繋がる鎖は私を床に
縫いとめる物。
  ただ、夜のだけ、鎖の先が外される。抱かれる為に。彼の部屋に連れて行か
れる時だけ・・・。
  私はその一瞬を待って何時も逃げるのだ。無駄な事とわかっているのに。
  全てにおいて、私は彼に敵わない。
  当たり前のように捕らえられ、当たり前のように折檻される。
  同じ事の繰り返し。
  そして、少しずつ、私の抵抗する気力は奪われていく。
 「また、・・・」
  ぽつりと呟いてみた。
  すぐに捕まえられる。
  今日は何をされるのだろうか? 考えると、胸が疼いた。全く、私自身にも
理解出来ない感情だ。
  足音がする。
  ゆっくりと、余裕すら漂わせて、師兄が私に近づいて来る。
 「おまえは面白いな」
 「そうかな?」  
  私は首を傾げた。汗で湿った髪が、顔に張り付いて気持ち悪い。
  玉鼎が、すいと私から身に着けていた領巾を奪った。
 「ああ」
  窓が開かれる。外が雨だと私は初めて知った。
  翳された領巾が見る間に濡れていく。水を吸ってほどよく重くなる頃を計り、
それは引き戻された。
  振り上げられても、私はただ、見ていた。
  何も実感が湧かなくて。
  動く事もせず、私に向かって降ろされるのをただ・・・。
  衝撃はきつかった。
 「う・・・あ・・・」
  肩に重い打撃が与えられ、私は倒れた。痛みはなかなか拡散してくれなくて、
体を丸めてやり過ごそうとした。
  反面、無防備になった背に、次の一撃が襲った。着物を通してさえも、堪えが
たい苦痛だった。
 「や・・・めて・・・」
  私をいたぶるように、わざと間隔を空けて打ち据えられる。
  純粋に、私は師兄を怖れた。
 「何故、おまえは逃げる?」
  師兄の声は冷たかった。 
 「抱かれるのが辛い・・・」
  体を庇おうと身じろぎながら、その度に新たな場所を打たれて私は苦しんだ。
 「自由がないのも、嫌だ」
 「困ったな」
  師兄が私の体を立たせ、壁に押し付けた。
 「どれも、譲れない事だ」 
  道服の裾から、師兄の指が侵入した。
 「私は、おまえを愛しているから・・・解放は出来ない」
 私が反論するより早く、唇が奪われた。接吻は深く、激しくて、意識が途切れ
そうになるまで続けられた。     

 師兄・・・」
 「ここにいなさい。何処へ行く事も許さぬ」
  私の心にまた、あの理解しがたい感情が湧いた。
  追い詰めてくる手が、ふいに私に膝に落ち、片足だけを持ち上げられた。
 「・・・!」
  一本の足だけで体を支えなければならない不安定な私を、さらに壁に押し付ける。
 「苦しい・・・っ」74
  私は瞳を見開いた。
  尤も隠しておきたい所に熱い塊が当てられたのだ。
  信じられないと、私は師兄に縋った。
  ベッドの上でしか、愛された事がないのだ。このような姿勢では、私の体重が
加わって痛みは常より酷いだろう。
 「大丈夫だ・・・」
  囁かれて・・・。私は底のない深い闇に突き落とされた。 


  鎖が繋がれた。
 「また、夜に」
  師兄が私の額に接吻した。
  私は自由にならない腕を体の下に敷かないように気をつけて、冷たい床に体を
横たえた。
  また、同じ一日が始まる。