冷たい秋の雨だった。
       空は灰色の厚い雲に覆われ、その向こうにあるはずの太陽は、地上を忘れて
      しまったかのように、何日も顔を覗かせていない。
       昼間明かりが必要な暗さの中、テーブルに置かれた蝋燭の火がふいに揺れた。
       玉鼎が首を傾げた。
       揺らめきは空気の流れ。閉めきられた金霞洞で、しかも玉鼎しかいない場所で、
      起こるはずのない事だ。
       再び炎がじじっと動いた。
       筆を置き、玉鼎は立ち上がった。
       理由はわかったのだが、何時もと違う気配に不審を覚えたからだ。
      「−−太乙」
       表へ通じる扉の内側には水溜りが出来ていたが訪問者の姿はなかった。水滴が
      玉鼎が来た方角と逆に転々と続いていた。
       わざわざ雨の中を玉泉山に赴いた太乙に、玉鼎は肩を竦めた。
       後を辿れば、水は地下へと向かっている。先には浴室があるだけなので、冷えた
      体を温めに行ったのだろう。
       きびすを返しかけた玉鼎の目に、階段半ばに座り込んでいる太乙が映った。両腕で
      細い体を抱きしめて震えていたのだ。
      「何をしている」
      「師・・・兄・・・」
       ゆっくり上げられた顔は、薄暗がりであっても異常に青白かった。
      「足、滑って・・・」
       最後まで言わせずに玉鼎は近づき、太乙の前に膝を付いた。靴を脱がせ、足首に
      手を触れる。
      「・・・っ!」
       太乙が顔を顰めた。
      「くじくまでは行っていないようだ」
      「お風呂には入れる?」
      「ああ」
       抱き上げられて、太乙は驚いてしがみついた。
      「手を貸してくれたら歩けるよ」
      「無理はするな。気がずいぶん弱まっている」
       濡れた着物よりも尚、太乙は冷たかった。体力が削がれると、気力もまた失われて
      しまう。
      「本当に愚かな真似を。この酷い雨に、表へ出る者があるか」
       満面に湯が沸いている場所に、そのまま落とされて太乙がもがいた。
      「ちょっと、服が!」
      「必要がないくらい濡れているだろう?」
      「・・・師兄、強引」
       冷えた身体に湯は熱かった。太乙は思わず逃れようとしたが、玉鼎に留められる。
      「熱いよ」
      「体温がもとに戻るまでは駄目だ」
      「じゃあ師兄も一緒に入って」
       振り向きざま、強引に首を腕に絡め、体重をかけて玉鼎を水中に引きずり込んだ。
      「太乙!」
      「あなたもずぶ濡れだ」
       太乙が身を寄せた。湯に広がる長い黒髪を掬い、大事そうに接吻する。
      「・・・・」
       ふっと色の薄い瞳が憂いを含んで伏せられた。
      「昨日も一昨日も、会いたかったのに雨止まなくて、我慢出来なかったんだ」
       手で水面を叩く。苛立ちを紛らわそうとしているのか、何度も何度も。
      「独りでいると悪い事ばかり考える。風の音も気になって。・・・もう道府も開いたのだから、
      こんな事じゃいけないってわかっているのに」
       玉鼎が、太乙の顎に指をかけて顔を上げさせた。    
       まだ悪い顔色で唇だけが紅を引いたように赤かった。
       指が首筋を滑り、ある一点に触れる。
       太乙の表情が切なそうに曇った。
      「私のではないな。以前のは消えているはずだ」
      「・・・うん」
      「おまえが望んだのか?」
      「師兄はわかっている」
      「そうだな」
       手を引き、太乙を抱きしめてやる。
       ほう、と溜息が玉鼎の耳元で聞こえた。
      「こうして欲しかった」
       頭をもたせ、太乙の全身から力が抜けた。
      「服、気持ち悪い」
       肌に袍がべったり貼りついている。・・・それは玉鼎も同じなのだが。
       帯びを解こうとした指が、思うように動かず、もどかしげに太乙が舌打ちした。
       玉鼎がくすりと笑う。
      「師兄・・・」
      「何故、私に言わない?」
      「だって」
       項に軽く歯を立てられて、太乙の背が反った。
      「だって、何だ?」
       誰かが付けた跡の上から、さらに濃い赤を植えていく。
      「して欲しい事は頼むと良い」
       舌が触れてきたのを感じて、太乙が身を震わせた。冷え切っていた体の内側からかっと
      した熱が生まれる。
      「さあ、名のをして欲しい?」
      「着物、脱がせて・・・」
      「それから?」
       太乙が振り仰いだ。短めの髪がぱさりと揺れた。
       視線と視線が絡んだ時、太乙は優しく接吻されていた。
      「ん・・・っ」
      「太乙」
       漏れる吐息。
      「抱いて、欲しい」
      「わかった」
       襟元が寛げられ、敏感な胸に入ってくる動きに、太乙が静かに瞳を閉じた。