「どうしよう・・・」
太乙は汲み上げたばかりの井戸水で掌を何度も擦り合わせた。最近開発したばかりの、
乾元山の最深部から水を吸い上げる事が出来るポンプで汲んだので、水は氷のように
冷たかった。
今日のような蒸し暑い日は本当に重宝する・・・と考えて慌てて頭を振った。
「それどころじゃないのに!」
細い指が冷たさに赤くなってしまっていた。だから余計に汚れが目立つのだ。滑らかな
皮膚にくっきり染み付いた機械油の黒が。
掌にあちこちこびりついて、爪などは侵入したそれらによって変色までしていた。
「師兄が来る前に何とかしないと」
もうずいぶん屈んで手を洗っていたせいで、体があちこち痛かった。たかが油でどうして
ここまで苦しまなければならないのかと、悔しさに涙が滲む。
何時もなら気にもしない事なのだが、今は状況が違っていた。
そもそもの原因は太乙にあるのだ。
最近体調があまり良くなく、早々と夏ばてを起こしたせいで、何かと構ってくれる玉鼎に
研究室に入る事を止められていた。
しばらくは言われた通りに休息していたのだが、機械を弄る以外に趣味など持たない身
故、すぐに飽きてしまった。
少しだけ・・・と戻った研究室で、仕事をしている間に、手に油はべっとりついてしまった。
悪い時は重なるもので、今日に限って玉鼎から見舞いに訪れるとの連絡が入った。
大好きな彼の言いつけを守らなかったのが後ろめたくて、全てを隠してしまおうと、太乙は
こうして水場にいた。
馴染んだ油も、焦っている心には、ただ胸のむかつく匂いを立てる物にしか感じられなかった。
「どうして落ちないんだっ!」
苛立ちが募った。南方に生えるココの果汁と灰を混ぜて作った当時としては珍しい石鹸まで
使っているというのに。
疲れてしまった太乙は、何ともなしにふと空を見上げた。固くなった首からごきりと音がした。
うわあ・・・」
初夏の芽吹いた新緑の向こうに、抜けるような青い色が広がっていた。先日雨が降った
せいか、空は澄んでいた。
「はあ」
地にぺたりと座り込んで溜め息を吐く。撒き散らした水のぬかるみに靴先が触れ、泥を跳ね
上げた。
急に何もかもが嫌になってしまって、残った水も地面に零してしまう。
「こんな事より美味しいお菓子でも用意しよう。汚れているのは手だけだし、もしかしたら
師兄、気づかないかもしれないし」
自分自身に言い聞かせ、手を布で拭った。
指が冷たく悴んでいたせいで、掴んだつもりの布がぽろりと落ちた。
「痛・・・」
冷たいのか痛いのかわからなかった。
太乙は、赤く色づく唇から息を吹きかけて暖を取り、指を擦った。


玉鼎が訪れた時、サロンにはこれでもかとばかりに菓子や果実が並べられていた。
二人ではとても無理なその量に、玉鼎はこめかみを押さえた。
「体調が優れぬというのに、おまえは何をしているのだ」
「だって、師兄に食べて欲しくって」
玉泉山に咲く百合の花を渡された太乙は、嬉しそうに抱きしめてからテーブルに置いた。
甘い芳香が部屋を満たした。
太乙は着物の上から領巾をストールのように羽織っていた。内側から落ちないよう止めて
いるせいで、手はさりげなく隠されている。
「私なら大丈夫。元気になったから」
向かい合わせにテーブルを挟んで腰掛け、色の薄い髪を揺らしてにっこり笑う。
とは言うものの、果実一つさえ食べようとしない太乙を見て、玉鼎は眉を顰めた。
「ベッドに戻れ太乙」
「心配症だなあ。私だってこれでも仙の端くれ。病に倒れたりなんかしない」
太乙が肩を竦めた。
「自分で行けないのなら、連れて行ってやるが?」
「・・・わかった」
憮然として立ち上がった拍子に、纏った領巾が肩を滑り落ちた。
「あ・・・っ」
思わず追った手が、玉鼎の前に晒された。ほんの一瞬だったが、明るい陽光の中、黒い
色は否応にも目についた。
「太乙」
伸ばされた手が太乙の腕を掴んだ。
「離して」
振り払おうとしても、力が入らなかった。
引き寄せられるまま、玉鼎の胸に抱かれる。温かな腕が太乙を包んだ。
「師兄・・・」
「私はゆっくり休んでいなさいと言った」
「知ってる」
「なのにおまえは研究室に入った」
未だ冷たい指が捕らえられ、玉鼎の唇に含まれた。
「・・・んっ」
体の末端に、痺れが走った。
「悪い子だ。・・・今日はおまえの側にいよう。もう、部屋から出れぬように」
「ごめんなさい・・・」
素直に、謝りの言葉が出た。
「おまえと過ごせる時間が出来たのだ。こういう事態も結構良いものだな」
「何言って・・・!」
握った拳が抱き上げてくる玉鼎を打った。軽く。
「側にいてくれるの?」
「ああ」
「嬉しい」
玉鼎の首に腕を絡め、落ちないようにしっかりしがみつき、そっと触れた場所に太乙は
接吻をした。

ちょっとおひさの太乙受け。夏コミの原稿が結構大変で、更新が
滞ってます。ごめんなさい!