太乙が足を動かすと、湯が水紋を描いて波打った。
「んー・・・気持ちいい」
四肢をゆったり伸ばしてうつぶせに寝転ぶ。冬の寒さに凍えた体に、湯の温かさは
染み、太乙にもし猫のような声帯があれば、ごろごろ喉を鳴らしていただろう。
ともすればまどろみ、ずり落ちそうになるのを支えるのが大変だった。湯で溺れた
仙など、笑い話にしかならない。
「本当に・・・最高」
「おまえはここに何をしに来たのだ」
頭上から呆れたような声が降った。太乙が視線を上げると、玉鼎の黒い瞳と合った。
「湯を使いに。外はとても寒かったから」
「そもそも外になど出なければ良い事ではないか」
「・・・だって」
太乙は軽く唇を尖らせた。赤い色素が濃い分、熟した果実のように見えた。
「こーんなに広い湯殿は私の道府にはなくって。乾元山には温泉もないし」
ふんだんに湯の湧く泉を地下に、金霞洞の屋敷は建てられていた。天空高くに位置
する崑崙の空気は乾いているが、この泉のおかげで、夏は蒸気が涼しさを、冬は熱
を与え、屋敷中に穏やかな湿度を含ませていた。
師兄に会いたくて、とはとても言えず、太乙は鼻先までぷくっと湯に沈んだ。
「太乙」
「私に帰って欲しい?」
「・・・いや」
幸せそうに太乙は笑んだ。
「じゃあ師兄、来て」
濡れた手で玉鼎の袖を掴み、体を支点に半回転する。ふいうちと加重が乗った動き
に玉鼎は湯に引き込まれた。
「〜〜〜太乙!」
波飛沫の中で、貼りついた髪を玉鼎は掻き上げた。
「服、脱がしてあげる」
宝貝を扱う細い指が、道服の帯に伸びた、湯にあっても尚微かに冷たい帯玉を握る。
「珍しい紫だ」
玉鼎が身につけるのは人工的に造られるトンボ玉。実に様々な色と模様がある。その
中でも、華大陸にはまだ存在しない紫と青が太乙のお気にいりだった。
「解けない、帯・・・」
「これだけ湯を吸えばな」
太乙の指を離させ、後ろ向きに膝へと抱え上げた。名残惜しそうにするので、帯玉だけを
取り、持たせてやる。
「悪戯な子供のようだ、おまえは」
太乙の喉がくくっと鳴った。
「ここは温かい・・・」
「あたりまえだ」
「そういう意味じゃなくて!」
独りで道府にいるのは、淋しく、寒い。玉鼎も太乙も現在弟子を持っていなかった。
長い冬の夜が、玉鼎は淋しくはないのだろうか・・・?
太乙は体の力を抜いた。
ことりと凭れる体は玉鼎が受け止めた。
「今日、泊まってもいい?」
「おまえを拒む扉は金霞洞には存在しない」
赤く太乙の頬が染まった。
「ありがとう」
湯を吸った髪がぐしゃぐしゃに掻き回された。


外は雪。
貸してもらった大きい道服を肌蹴けないよう、太乙は帯ではしょった。背丈だけでなく、
華奢な体格のせいで、服は余計にぶかぶかだった。
袖には襷を掛ける。
「しばらく来てないからな」
呟きながら台所に入り、棚を端から開けてみた。
「やっぱり〜、お茶しかないよお」
以前に太乙が洗ったままのぴかぴかの調理器具が壁に並んでいたが、肝心の食材が
ない。
「師兄らしいんだけどね」
ぐるりと周囲を見回して、首を傾げる。貯蔵庫に行けば何かあるだろうが、雪の外に
出れば酷く怒られてしまうだろう。体があまり丈夫ではない太乙に対して、玉鼎は過保護
の気があったから。
「まあ・・・お茶でも煎れてみようか」

玉鼎は既に日常生活に戻っていた。私室を太乙は覗いてから、竹管が壁の三面に高く
積まれている書庫に向かった。
扉を開くと墨の香りがした。
「師兄」
「何だ?」
返事はあったが、玉鼎が顔を上げもしなかったので、太乙は少し悲しくなった。
「・・・別に」
つんとそっぽを向き、わざと音を立ててカップを置く。
「お茶、どうぞ!」
苦笑が聞こえたと同時に、体が引き寄せられた。
「ちょっと・・・止めて」
肩に手を付いて制し、玉鼎を拒む。
「師兄がやりたい事、すればいいんだ」
急に訪れた自分が悪いのに、悪態をついてしまう。玉鼎が甘えさせてくれるのを知って
いるから・・・。
接吻されて意識が霞む。
膝に抱かれたまま、太乙は玉鼎の首に腕を絡めた。
「好き、師兄・・・」
茶を含む玉鼎の唇が笑みの形に上がった。