風の向きが微妙に変わったと最初に気付いたのは泰明だった。
「・・・頼久、外に出てかまわぬか?」
「このような時間にどこへ?」
夕餉を与えてから休ませていた泰明のふいの言葉に頼久は首を傾げた。
「風がおかしい」
「・・・風?  そういえば、少し肌寒いような」
初夏にしては纏わりつくような風だが、特に変わったところなど感じられはしない。
「わからないのか? おまえには」
縁へ出た泰明が暗闇を見つめた。一年で一番昼が長い時期。ようやく落ちた陽によって
瞬く間に周囲は暗くなっていた。
「残照の赤がない」
泰明が呟いた。
「お願いだ。頼久」
「私とともになら許しましょう。あなたをこの土御門の敷地で迷わせるわけにはいきません」
頼久は着物をもう一枚泰明に掛けてやった。
「昨夜と違って今日は冷えます」
ふっと泰明が頼久wp振り仰いだ。
「・・・ありがとう」


邸内には北より水が引かれていた。北高南低の京の地に似せて造られた庭を流れ、
外へと抜けていく。その途中で幾つにも分かれ、草木や花で覆われていた。
「あれを、頼久」
泰明が流れが来る方角を指差した。緩やかな水に乗って白い紙が一枚浮いている。
「何でしょうか」
「人形だ。人の穢れを移して流す為の。卯月でもないのに、おかしな事をする。穢れを
祓いたいならば陰陽師を呼べばいい。何故・・・」
身を屈めた泰明は水に手をつけたが、それをすぐに引き上げた。
「・・・呪詛の気配がする。ここはお師匠の結界のうちにあるはずなのに」
流れる水。液体を呪で縛る事は出来ない。結界の唯一遮断される場所を狙って穢れは
送り込まれたのだ。
「穢れ流しに時節が関わるのですか?」
「日や時刻をわざと違えるのは呪術だ」
掌に収まってしまうほどの型代。だからこそ、晴明の張った守りを潜り抜けたとも言える。
常の泰明なら簡単に封じただろう。
しかし、躊躇いは動きを奪った。
くるりと一度沈んだ人形は二人の前に寄せる前に小さな支流に分岐した。
「あそこは・・・!」
頼久が足を踏み出した。
「星の姫の居室に続いている!」
京を護る龍神に仕える星の一族。現在唯一の継承者となった幼い少女が失われれば、
血は絶える。都が危機に瀕した時、龍神の神子を召還する者がいなくなるのだ。
「させぬ!」
「何を・・・」
泰明が止める間もなく、水の入った頼久が白い紙を剣で拭い上げ、突き刺した。
薄い紙片にも関わらず、感じた鈍い手応えに思わず頼久は身を引いた。
「愚かな。刃で呪が断てるか。上がれ頼久、来るぞ!」
砕かれた紙が宙に舞い上がり質量を増した。翼のある虎へと姿を変えて断ち切った者
−−頼久−−に向けて急降下してくる。
頼久は髪一筋ほどの差で鋭い爪をかわして地に転がった。
即座に繰り出した反撃の剣は獣を切り薙いだが、傷一つ負わせる事が出来ない。空気
を相手にするような物だ。妖魔に人界の技は通用しない。
かわすだけで精一杯となった頼久が追い詰められていく。
理に乗っ取って返した呪は術者に帰るが、無理に断ったが故に対象を変じてしまった。
このままでは頼久がたられてしまうと、泰明は感じた。
それだけは!!
泰明が頼久の前に回り込んだ。華奢な背に庇い、髪を留めていた細長い櫛を引き抜く。
「陰陽を司る者が命ず。この落ちる所、魔を封じよ!」
滑空する獣に泰明が投じた物は光の筋となって吸い込まれた。
咆哮が響いた。櫛に貫かれた獣が塵となり彼方へと散った。
「頼久、大事ないか」
ばらばらに乱れた髪を靡かせて振り返った泰明の目に膝をつく頼久の姿が映った。
「・・・何故そのような事をするのだ」
「陰陽師である泰明殿に対する当然の敬意です。命を助けて頂き、ありがとうござい
ました」
「止めろ・・・私は・・・」
後退さった泰明の足が乱れ、体が倒れた。
「−−−!」
傷ついていた下肢に激痛が走った。掠れた悲鳴を上げて泰明が身を丸める。
「泰明殿!」
驚いて助け起こそうとした頼久に泰明は縋りついた。瞳には痛みのせいばかりではない
涙がいっぱいに湛えられていた。
「頼久・・・」
そんな泰明と視線を合わせ続ける事が頼久には出来なかった。
「私は陰陽師ではないのだ、もう」
「あれほどの地からをお持ちではありませんか」
「偶然だ」
「・・・晴明殿のお言葉を私は聞きました」
ふいに変えられた話に泰明が体を強張らせた。
「師匠が来たのか?」
「はい。鳥に言霊を託されて」
空を舞っていた鳥を泰明は思い出した。気にも止まらないほどの羽ばたきに大きな
気配を感じていた事を。
「泰明殿のお力が安定しないのは、心の拠り所となる物がないせいだと・・・」
「心の拠り所?」
「無事にそれをお見つけになられたご様子。おめでとうございます」
「おまえではないか」
泰明が拳を握り締めて頼久の胸を打った。
「おまえを失いたくなかった。おまえを・・・」
「泰明、殿・・・」
「何故私が陰陽師を止めたくなった時、おまえの所に行ったのかわからないのか?」
尚も振り上げられる手首を頼久が掴んだ。
「おまえを守れるなら・・・その為になら・・・私は陰陽師であってもいい」
溢れた涙が泰明の頬を伝う。
頼久は引かれるように目元に口付け、それを吸い取った。
「私はあなたにひどい事をしました」
ぴくんと泰明は震えたが、それでも離れる事はなかった。
「構わない。多分、私は許せる」
言葉を最後まで紡がせずに頼久は泰明に接吻していた。
心の拠り所を得たのは泰明ばかりではない、と頼久実感した。自分もこんなに大きな
安らぎに満たされているのだから。

ずいぶんとくさい終わり方ですが、一応甘くしてみました。
いかがな物でしょうか。