泉水は馬の手綱を引き、足を緩めた。並足に速度を落としていく横に、遅れてついてきた
彰紋が並ぶ。
「お速いですね」
「私が馬などとは意外でしたか?」
「そうですね」
にっこり笑った彰紋がふっと泉水を振り仰いだ。
「こうして出かけてみたかったのです」
「私などに勿体ない言葉です」
泉水が視線を落とした。
「僕が呼んだのですから、そんなに気を使わないで下さい。今は二人だけですし、本当の
姿になられても構わないのですから」
「どういう意味ですか?」
「・・・さあ。あ、見えてきました」
京の一条より北に、その場所はあった。代々、位を継がなかった皇家の者が多く入る由緒
ある寺である。仁和寺と、名をいった。
「臣籍に下った私が足を踏み入れても良いのでしょうか・・・」
「今さら、仰られても困ります」
躊躇う泉水の腕を彰紋が引いた。
「み仏の前では全てが平等なのでしょう? 是非あなたにお見せしたい物があるのです。
図書寮で僕が見つけた紙片は読まれましたか?」
「はい・・・しかし、あれはどういう事なのでしょう」
先日、彰紋に渡された走り書きに近い紙を泉水は思い出した。何かの書に挟まっていた
らしい。
それだけの物なのだが、書いた人間が問題だった。
流れるような繊細な筆跡は、多くの書を残した先代の天の玄武の物なのだ。同じ玄武を
継いだ泉水に彰紋が渡したのだ。
「60年以上も前に儚くなられた方ですが・・・あれの続きがここに収められているのです」
「彼の全くの創作かもしれません」
泉水は頭を振った。
「そうなのですか? でも、僕は読んでいないからわかりません。憚られるような気がしたので」
「同じ皇家の方、何の遠慮がいりましょう」
「でもあなただけに読んでほしいと思うのです」
広大な敷地を歩きながら彰紋は言った。
二人が通された部屋は、先の天の玄武、永泉が使ったままにしてあると教えられた。
とはいえ、家具の塵はきれいい払われ清掃は行き届いている。
出家した者にしては持ち物が多い、と泉水は軽く眉を顰めた。
尤も、一般の出家者と、天上人の頂点にいた者とは違って当然なのかもしれない。
「そこの棚を開いて下さい。僕は下がっていますから」
「彰紋殿・・・」
「伯父上に久しぶりに会いたいので、失礼しますね」
言い訳にすぎないと充分わかっていたが、あえて泉水は止めなかった。
一人残されると静かすぎる静寂が伝わってきた。それが心地よい。泉水が求めてきた物。
こうして、静かに過ごしたい。
心を空白にして。
そうしなければ入り込んでくる闇を封じる為に。
幼い頃より何も出来ぬ愚かな者よ、と実母より言われ続けてきた。押さえ込まれ踏みつけに
された魂に暗い部分が生じたのは何時の事か。
破壊衝動にも似た心に一番驚いたのは自分自身。それが怖くて出家を望んでも、また、母に
止められた。
「ここのように立派でなくても、何所か小さな寺でも構わない・・・」
ゆっくりと泉水は彰紋に示された棚を開いた。
きれいに綴られた書が中には収められていた。
「先代の玄武は・・・み仏にお仕え出来て幸せな方だったのですね、きっと」
紐解いた書を膝に広げ、開け放たれた縁を一度見やってから泉水は読み始めた。
外は夏の陽光が差し込んでいるのに、部屋の中は別の空間のように薄暗い。ひんやりとした
風すらあって、軽く汗ばんだ泉水の肌を冷した。
字を辿った指がふいに止まった。
「泰継・・・?」
注視してみればその名はあちこちに記されている。
「まさか、あの泰継のはずがありませんね。あの方は私より少し上なくらいでしょうから」
対を成す、と言われているもう一人の玄武の顔を泉水思い起こした。帝の側に立ち、京の
混乱に拍車をかけているとしか考えられない者。
「安倍家も既に力ある陰陽師が存在しなくなって久しいと・・・では、彼は・・・」
泰継の力は噂を打ち消すほどに強い。
「考えれば不思議な方ですが。だからと言って」
笑みを浮かべて否定はしても、泉水は永泉の残した書を閉じる事は出来なかった。あまりにも
生々しく記された泰継という存在。決して先の地の玄武ではなく、泰継と。
読み進む内に、何故この書だけが永泉の部屋に残されていたのかがわかったような気がした。
永泉の書いた物は全て内裏の図書寮か、仁和寺の書庫に収められているはずなのに、これ
だけが秘され、60年以上も発見されなかったのだ。
「これを読み、私を継ぐ者あれば・・・」
書の締めくくりは途中までしか書かれていなかった。
「何を求めていらっしゃったのでしょうか」
過去に消えた法親王は。
「私と同じ心をお持ちだったのか・・・」
零れ落ちる夏の陽に視線を向けながら、泉水は永泉を思った。

薫風の番外編でしょうか。
永泉と泰継を書いていますが、泉水と泰継もいいかな、と思いました。
泉水は永泉との違いを出して本当の攻にしたいですね。
また次からは薫風に戻ります。