雪琴

泰明は部屋の隅に置かれていた琴に近づいた。絹が覆いとして掛けられてはいるが、
透けるほどに薄く、下の繊細な造りが見て取れた。

楽器としての知識は泰明にはあっても、実物を目にするのは初めてだった。晴明の
屋敷では爪弾く者など誰もいはしない。呪と静寂が何時も深く降りているだけだ。
泰明自身、外に出る事など滅多に許されてはいなかったから、屋敷以外の世界と殆ど
接していない。
生まれてから1年と少しばかりの・・・冬だった。
絹をそっと剥ぐってみる。御簾越しに差し込む光にきれいな木目が映えた。珍しそうに
撫でてから少し躊躇い、桜色の爪先を玄に触れさせた。
「あ・・・」
びいんと鳴った音の大きさに泰明の体が竦んだ。咎められるのではないかと慌てて
周囲を見渡し、部屋にいるのが自分だけなのを思い出して安堵した。
新年の厄祓いの暦を持って、師に遣わされた屋敷である。主は未だ現れず、泰明は一人
待たされていた。
初めて入る他人の屋敷は居心地が悪いような気がして、早く帰りたいと思っていた。
しかし、陰陽寮で作られた暦は個々人によって違う為、必ず本人に渡さなければなら
ない決まりだった。だから、最初はじっと座っていた。
既に一刻ほども時間は経っており、成長しきっていない幼い魂を内包する泰明は、
すっかり待つ事に飽きていた。
音を出してみるとその滑らかさが気に入り、再び指をあててみる。張られた弦は全部
音が違っていて、爪弾く度に起こる新鮮な音色が面白かった。
「もっと前にきちんと座ってごらん。それでは良い音なんて出はしない」
ふいに声が掛けられて、今度こそ泰明は飛び上がるほど驚いた。人の気配に気付かぬほど
夢中になっていたのが恥ずかしく、振り返る事が出来なかった。
御簾を翻して友雅が入ってきた。
「挨拶もしてくれないのかい?」
友雅は座ったままの泰明に首を傾げ、細い肩を掴むとひどく震えているのがわかった。
訝しいと感じながらも、袖を回して抱きしめてやる。

「今年は君が暦を届けてくれたのだね。晴明殿も粋な計らいをして下さるものだ」
床に置かれている紙の束に友雅が視線を落とした。吐息があたった泰明の項が戦いた。
「怒っていないのか?」
「一体何に?」
「私は・・・っ、おまえの物に勝手に触っていたのだぞ」
「君は怒って欲しいのかな?」
友雅はわいてくる笑みを抑えられなかった。悪い事をしたとしゅんとなっている泰明が
可愛らしく、つい苛めてしまいたくなる。
「ではお詫びに接吻でもしてもらおう。・・・勿論、君から。終わったら、そうだね、
もう少しましな音になるよう、教えてあげようか」

腕の中で華奢な体を反転させると、色の違う二つの瞳が、揺らいだ光を浮かべて友雅を
見つめた。

言葉を紡ぎかけてでもいるのか、赤い唇は戦慄いている。泰明の戸惑いが手に取るよう
だった。
「さあ、泰明・・・」                

これはインフォメペーパーからの再録です。必ず一つ書下ろしを載せていますので、
最新のをご希望の方は会場などでお気軽にお尋ね下さいませ。去年の冬コミの
ペーパーからなので、少し季節外れです。