変わらぬ、朝。今日も泰明は独りで目覚める。
体を起こすと、全身に満ちる気だるさにも・・・もう、慣れてしまった。遅くまで休む事を
赦されなかったせいで、疲れは濃く残っていた。
とはいえ、仕事で呼ばれるか、師の身の周りの雑事を命じられるかがなければ、
泰明にはする事などない。
彼の住まう師の屋敷の一角に訪れる者など滅多におらず、こうしてぼんやり床に
いても、咎められはしない。
「・・・友雅・・・」
数刻前まで自分を抱いていた男の名を呟く。
彼のいた温もりなど微塵も残されていない上掛けを、泰明はそっと握り締めた。
気が乱れ、怨霊が発生しているというのに、友雅は朝を迎えるまで泰明の側にいる
事はなかった。
師が関わっている故、守られてはいるのだろうが、一抹の不安を覚えてしまう。
彼がただ人であるから。
「何故私が、彼の事を心配しなければならないのだ」
夜毎、終わりなき苦しみと、言いようのない感覚を与え続ける男などに。
泰明は上体を起こした。
初夏の大気はもう熱を帯び始めていて、素肌にねっとりと纏いついてきた。
乾いた汗と体液が気持悪く、水場へと立ち上がる。
下肢が重く足が縺れた。
慣らされたはずなのに、体の消耗は相変わらずだった。


ざあっと何度も冷たい水を頭から被る。地下深くから汲み上げられる水は、身を切る
ように冷たかった。
初めて友雅に抱かれた時も、こうして冷たい水に身を晒した事を思い出す。あれはまだ
早い春の事で・・・。幾つもの日がそれから経過していた。
季節が春から夏へと向かうほど。
体を震わせながらも、泰明はさらに水を掛け、腕で自身を抱きしめて蹲った。
「・・・何故」
頭から離れない。
触れられた場所が疼いた。体を割って受け入れさせられた場所は・・・もっと酷く
疼いた。
また、今宵もか・・・。
友雅は熱く抱いてくれるのだろうか・・・?
そう考えた時、背がぞくりとした。
慌てて頭を振り、思った事を追い払う。
・・・なのに。
「私は何を考えているのだ・・・」
友雅に抱かれたいなどと。
「まさか、そのような事」
自身に冷笑し、新たな水を桶に汲み上げた。その手が半ばで止まる。支える力を失った
桶が井戸の底へ落ちていった。
気が乱れて澱んでいるように、泰明は自分がなってしまったと感じた。
頭から意識して、浮かんだ事を忘れようとしても、それでも、確かに彼に抱かれたいと
期待している自分があった。
急に友雅に会うのが怖くなった。
彼に会って何を言い、何をしてしまうかわからなかったから。
濡れた髪から、雫がぽたぽたと滴った。
身が赤く染まるほどの冷たさに浸されながら、泰明は立ち尽くしてしまった。
新緑の葉陰をすかして、初夏の太陽が照らしていた。


泰明は部屋に戻ると、着物を調えた。
ここにすっといても、考えは空回りするばかりだと気づいたからだ。麻を使った夏向きの衣を
纏い、心落ちるかせる為に泰明は、表に出る事にした。
ふと・・・本当に何気なく泰明の視線が枕元に注がれ・・・凍りついた。
先程までなかったはずの物がある。
咲き始めた紫の藤の花。
泰明が好む夏の花。
咽るような桔梗の香りしか知らなかった泰明が初めて心地よいと思った、可憐な花の集まり。
「一体・・・」
わけがわからなかった。
泰明の部屋に通じる廊下は一つだけ。水を使いながらも、泰明はそこを見ていた。誰も通った
様子などないのに。
「師匠か・・・」
一枝だけの藤を取り上げる。
心が惑う。
花を抱きしめ、泰明は身じろぎもせずに考え込んだ。
「惑いなど・・・私には感情など、ない」
言い切れはしない。ほんの数ヶ月前までは、当たり前のように受け止めていた事を。
「・・・私は」
藤を握る手を見つめた。
他者とは違う、白すぎるほどの己が掌。鏡を見れば否応なく目についてしまう、左右の色が違う
瞳。色素の薄い髪。
京に現れる鬼とはまた別の意味で・・・泰明も異質な者だった。
惑いが続けば、精神の研ぎ澄まされた統一を必要とされる隠陽師をしての自分の存在までを
失ってしまいそうな怖れを覚える。
力を無くせば、もう、泰明がこの世に・・・八葉としている意味がないような気がして。
「決着を・・・」
泰明は藤を水差しに立てた。
一度は伏せられ、藤に向けられていた顔が上がった。
意思で心の揺れを押さえ込んだ泰明が、いた。

・・・やっと結論に向き始めたようです。
きちんとこのシリーズが納得いく形で終われますように。