部屋の空気が冷えているのに楊ゼンは気づいた。
   カーテンがひらひらと揺れている。
   太乙が窓を閉めないまま帰ったらしい。
   しかし、開け放たれていたせいで、室内の澱んだ気は一掃され、清涼な玉泉山の息吹に
  満たされていた。 
   そろりと体を起こしてみる。自分の物でないように重かったが、立って歩けるほどには回復
  していた。
   素足のまま窓辺に歩み寄り、外気と遮断すべく窓を閉じた。雪の中に赤い花をつけた椿が
  見える。それが昨夜流した血の色と重なり、楊ゼンは身を竦ませた。
   例え半妖であっても、血はあんなに赤いのだ・・・。
   楊ゼンは佇み、動かなかった。頭には迷いが巡っている。
   拳が一つ、窓を叩いた。


  「師匠、楊ゼンです」
   扉をノックしてそっと開く。
   広い室内で、玉鼎は一人グラスを傾けていた。
  「おまえの方から来るとはな」
  「僕は、逃げません」
  「・・・そうか。ではおいで」
   玉鼎はテーブルを挟んで向かい合う席を指した。楊ゼンが座ると、西域の葡萄から作られた
  ワインが渡された。
   僅かな量しか注がれていなかったが、楊ゼンにとってはアルコールを勧められたのは初めて
  の事だ。
   グラスを掴むと一息に飲み込む。
  「ぐ・・・っ、ごほっ」
   焼けるような熱が喉に走った。
  「子供には早すぎたか?」
   玉鼎の笑い声が聞こえた。
  「僕を子供でなくしたのは師匠ではないですか」
  「おまえが望んだのだ」
  「・・・・」
   楊ゼンは言葉に詰まった。
   太乙と同じ事をして下さいと強請ったのは、まぎれもなく楊ゼン自身だから。しかし、楊ゼンにして
  みれば太乙が金霞洞を訪れる度に夜を玉鼎と過ごしているのが羨ましかっただけなのだ。
   玉鼎に引き取られたばかりのごく幼い頃以来、楊ゼンは師の部屋に泊まる事は許されなかった。
   お互いのプライベートだと諭されはしたが、太乙だけはあたりまえのように出入りしていた。
   何故自分だけが駄目なのか、楊ゼンにはわからず、理不尽に思えた。
   慈しんで大事にしてくれる玉鼎とは少しでも長く一緒にいたかったし、彼の胸に抱かれ、腕に
  包まれて眠りたかった。
   楊ゼンは嫉妬という言葉は知らなかったが、太乙に覚える感情は嫉妬そのものなのだ。
   表す言葉を知らないだけに、心の内にもどかしさがわだかまる。
   12の誕生日を迎えた時、何か欲しい物はあるかと尋ねられ、迷ったあげくに太乙と同じものを・・・
  と口にした。  
   この年頃は、子供が大人を夢見る。身体は子供のままなのに、子ども扱いされるのを嫌う。
    精一杯背伸びして、大人の仲間入りをしたように錯覚してしまう。 
   大人の太乙にしている事を自分にもと望んだ楊ゼンの無垢な体を玉鼎は開いた。
   痛みに泣き叫ぶ楊ゼンは、玉鼎を受け入れさせられながら、彼の手によって大人になった。
   楊ゼンが待ち焦がれた大人へのステップは、しかし苦い物でしかなかった。
   本当に太乙と同じに扱われたのなら、何故彼はあのように幸せそうに笑っていられるのだろうか。
  「・・・楊ゼン」 
   玉鼎が名を呼ぶのに、楊ゼンは我に返った。 
  「何か考え事か?」
  「・・・いえ」
   空になったグラスを押しやる。
  「おまえには甘い果実の方が良いようだ」
   優しい言葉はいつもと変わらず、昨夜見せた激しい顔とは別人のようだった。
   体の奥深くに残る痛みがなければ、全てが悪い夢であったとすませてしまえるかもしれない。
  「私に抱かれに来たのか?」
   口調はそのままで、しかし楊ゼンを怯えさせるには充分な問いかけがなされた。
  「師匠・・・」
  「おまえの逃げない、とはそういう意味なのだろう?」
   伸ばされた手が空を映した髪を一房拭い取った。
  「・・・師匠が・・・」
  「ん?」
  「師匠がお望みなら」
  「私はおまえの意思を尋ねているのだ楊ゼン」
   楊ゼンが俯いた。
  「僕を幼い頃のようにここに入れさせてもらう為に・・・」
  「太乙のように、だ」
  「・・・はい」
   言葉を切り、決心したかのように顔を楊ゼンは上げた。まるで何か教えを受けるように背すじを伸ばし、
  まっすぐ玉鼎を見つめる。
  「他に僕が出来る事はないのでしょうか?」
  「ない、といったらどうする?」
   楊ゼンの瞳が揺らいだ。
  「では・・・抱いて下さい」 
   瞬間、こらえきれずに玉鼎は笑い出した。どこか冷たく、苦笑に似た笑みだった。
  「いいだろう。楊ゼン、服を脱いでベッドへ行け」
   部屋の奥にある大きなベッドを玉鼎は示した。
   昨夜流した血の匂いが楊ゼンの嗅覚に甦った。勿論、今はシーツが取り替えられ、名残などありは
  しないのだが。 
  「どうした? 嫌なら止めても構わぬ。自分の部屋へ戻るといい」
  「やります」
   振り切るように頭を巡らせ、楊ゼンは立ち上がった。